貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編












※…
「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。その
名は中川泰宏。 中川が1995年から会長を務め
る「JAバンク京都信連」(京都府信用農業協同
組合連合会)の貯金残高は、1兆2567億円に達
する。


副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円
だ。JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員
数は、18万6000人にのぼる。


京都の農協で27年以上にわたってトップに君
臨しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰し
や悪質な地上げに手を染めてきた。2005年に
は「小泉チルドレン」として政界に進出し、
野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。





※…
郵政民営化選挙の「刺客」に指名される



「農協のフィクサー」中川泰宏は、どうにかし
て国会議員として中央政界に進出したかった。


だが中川が京都農協のドンであることが、政界
進出を阻む。


チャンスが訪れるたび、同じ京都を地盤とする
野中広務から激しい妨害を受けたのだ。


ところが小泉純一郎の登場によって潮目が変わる。


「郵政民営化」一点張りで勝負をかけた2005年
9月の衆議院総選挙で、「小泉チルドレン」「自
民党守旧派への刺客」に指名されたのだ。



※…〈〇三年、野中は政界を引退した。


野中自身は国会議事堂に雷が落ちたのを天啓の
ように感じたことが引退のきっかけであると語
っているが、実際は政敵である小泉純一郎との
戦いで刀折れ矢尽きたからに他ならなかった。


野中は同年九月、小泉の首相続投を阻止しよう
と政治生命を懸けて自民党総裁選に臨んだ。


しかし、仲間であるはずの平成研究会の有力者
(当時の参議院幹事長の青木幹雄や同派閥会長
代理だった村岡兼造)が次々と小泉陣営に取り
込まれていくのを見て、自らの政治力が衰えて
いることを認めざるを得なかった。


「早過ぎる」と惜しむ声が多かった野中の政界
引退に、中川の存在が影響していたとみる京都
の政治関係者は少なくない。


野中は、金庫番として頼ってきた秘書が電子機
器メーカーなどから約五〇〇〇万円の提供を受
けていた問題が浮上するなど弱みを抱えていた。


このような野中の泣きどころを探し出し、地元
・京都での影響力をそぐのが中川の役割だった。


中川は、小泉一派が仕込んだ「毒針」だった
のだ。



※…
「猛毒が要る」「誰ですか?」「中川だ」


野中広務は、小泉純一郎の「郵政民営化旋風」
を阻もうとしていた張本人だ。


自らの権力基盤を盤石に固めるため、小泉は
野中広務一派を潰す「刺客」を送りこみ、野
中の後釜にとどめを刺しておきたかった。


野中広務潰しの計略を練ったのは、小泉純一郎
秘書官として長年にわたってブレーンを務めて
きたスキンヘッドの男・飯島勲だ。


〈郵政民営化法案に反対した造反議員に対して
送り込まれた刺客としては堀江貴文(当時はラ
イブドア社長)や小池百合子といった著名人が
注目されたが、


政治的に最も重要なのは、「郵政族のドン」だ
った野中の本丸、京都四区の刺客だった。


小泉の側近で刺客の選定を任されていた首相秘
書官、飯島勲は田中に勝てる候補者探しに腐心
していた。


京都四区では現役を退いたとはいえ野中の人気
がいまだ高く、手足となって動く地方議員たち
も多い。


土地にゆかりのない落下傘候補では太刀打ちで
きないことは目に見えていた。



そうした状況で、中川に白羽の矢が立てられる
までの経緯は、大下英治が著した『野中広務
権力闘争全史』に詳しい。


中川は大下の取材を受け、同書が発行されると
親しい支援者らに献本までしているので、同書
は中川の立場から見た郵政選挙の「正史」だと
いえる。


同書によると、自民党は財務省のキャリア官僚
を京都四区の公認候補にすることを決定していた。


ところが、ある“著名な人物”が飯島にかけた
一本の電話で、公認候補の決定がひっくり返る
ことになる。


その人物は、「毒(野中一派)を制すには毒が
必要だ。毒に餡蜜(あんみつ)(財務官僚)は
似合わない」と語ったという。


飯島は聞いた。 「どれくらいの毒が必要か?」
「猛毒が要る」 「猛毒とは、誰ですか?」


「JA京都の中川というのが、(筆者註・野中
一派の)田中に対して猛毒になる」


中川を「猛毒」と表現した著名な人物は相当な
見識の持ち主に違いない。


なぜなら、野中の牙城に送り込まれる刺客は極
めて厳しい選挙を戦わなければならないし、仮
に当選できても京都の自民党議員のほとんどは
野中の息が掛かっており、四面楚歌になること
は目に見えている。


相当にタフでなければ刺客は務まらない。その
任に堪えるのは中川をおいて他にいなかった。



※…
野中広務が伊吹文明に放った恫喝


2005年の「郵政民営化選挙」は、すでに政界を
引退したはずの野中広務にとって、中川泰宏と
の代理戦争の様相を呈した。


〈郵政選挙の公示日八月三〇日を迎える前から、
野中と中川の鞘(さや)当ては始まっていた。


野中は同月一八日、京都市の自民党京都府連で
記者会見を開き、「(中川は〇二年の)京都府
知事選挙で自民党に反旗を翻した人だ。


党本部はその経緯を咀嚼しないまま公認した。


私は先頭に立ってやります」と宣戦布告した。
(略) 舞台裏ではもっと緊迫する場面があった。


場所はやはり自民党京都府連の会議室だった。
同府連会長だった伊吹文明ら京都府選出の国会
議員が居並ぶ幹部会議で、野中は「もし府連が
中川を全面的にバックアップするなら私は京都
一区から出ます」と啖呵(たんか)を切ってみ
せた。


(略) 京都府連が郵政選挙で中川を応援する
ならば、離党してでも自らの古巣と徹底的に戦
うという覚悟を示したものだった。


そして、よりによって野中が出馬すると言った
京都一区は自民党京都府連の会長である伊吹の
選挙区なのだった。


野中の発言は、国政を引退した顧問が現役の執
行部に対してクーデターを起こす可能性をちら
つかせる脅迫に近いものだった。


野中は当時七九歳である。


(略) 野中が啖呵を切った後、会議室は水を打
ったように静まり返った。


伊吹はしばらく間を置いて「そんなこと(中川
への全面的な支援)はしません」と言うのが精
いっぱいだったという。〉


野中広務と「農協のフィクサー」の罵り合いは
その後ますますヒートアップした。


「中川泰宏を選挙で絶対に落とすわけにはいか
ない」と躍起の小泉純一郎首相は、選挙期間中
二度にわたって京都入りし、中川への応援演説
をブッている。


小泉が中川と握手を交わし、演壇に上がると会
場の熱狂は最高潮に達した。


小泉は三〇分に及ぶ大演説を行い、メイン会場
だけでなく、予備の会場にも足を運んだ。


SPは止めたがっていたが、小泉は、聴衆一人
ひとりと握手をして回った。


「勝負師」と称された小泉はこのとき、完全に
戦闘モードに入っていた。


野中陣営にとどめを刺しに行っていたのだ。


こうして「農協のフィクサー」は、156票差と
いうギリギリの僅差を制して、「小泉チルド
レン」として衆議院議員に当選したのだ。


小泉純一郎と飯島勲と「農協のフィクサー」の
暗躍によって、野中広務は戦いに敗れた。…



※…次回《農業版「桜を見る会」疑惑》












不登校の子どもたちは、「誰も自分の本当の
気持ちをわかってくれない」と思い続けてい
ます。


周りがみんな敵に見えることもあるでしょう。


でも、そんな子どもたちが、一人の教師と出
会うことによって変化し、成長していく姿を、
思春期外来では見ることができます。



※…高校でも友だちを作れず


達也君(仮名)は、両親、弟との4人家族です。
幼児期は折り紙が大好きで、いつも一人で折っ
ていました。


掃除機や換気扇の大きな音が苦手で、耳をふさ
ぐことがありました。


小学校入学後は、なかなか友だちができず、
休み時間はいつも一人で本を読んでいました。


融通がきかず、相手と折り合いをつけること
が苦手でした。  


中学校時代もほとんど友だちができませんで
した。自宅では「フォートナイト」というオ
ンラインゲームに夢中でした。


学校の成績は優秀だったので、高校は地元の
進学校に入学しました。  


この高校では毎日のように大量の宿題が出ま
したが、達也君は、それを期限までにやり終
えることがほとんどできませんでした。


計画的に宿題をこなすことができず、とうとう
提出しなくなりました。そのため、成績は下が
る一方でした。


そして、高校でもなかなか友だちを作ること
ができません。高校1年の夏休み明けからは
学校を休みだし、その年の10月、お母さん
と一緒に思春期外来を受診しました。



※…母は「せっかく進学校に入学したのに…」  


診察室の達也君はとても緊張し、主治医から
の質問にも「はい」「いいえ」としか答えて
くれませんでした。


自宅ではフォートナイトに没頭し、昼夜逆転
の生活を送っています。  


同伴したお母さんは、 「せっかく進学校に
入学したのに、不登校になってしまい残念で
しかたありません。


このままでは人生の落ちこぼれになってしま
います。だから私は毎朝、達也を必死になって
起こそうとしました。


でも、達也はベッドから出てこようとはしま
せん。夫は『好きなようにさせておけ』と言
うだけです。


私は、何とかして登校させようと思います」と、
時折涙ぐみながら話をしてくれました。  


不登校ということで、主治医は、2週間に1
度の割合で通院してもらうことにしました。


達也君には多少、発達の偏りがあるかもしれ
ないことを頭に置きながら面接をしていくこ
とにしました。  


通院を始めて1か月がたちましたが、不登校
は続いています。


診察室で達也君は、「僕には味方が一人もい
ないんです。学校ではいつも一人っきりで、
それがつらくて学校を休むようになりました。


でも、家ではお母さんが、毎日のように『学
校に行け』とうるさく言う。


弟も登校できない僕をバカにしてくる。


誰も僕のことをわかってくれない」 と言って、
涙を流しました。



※…登校を続けられるようになったきっかけ  


ところが、その1か月後から、達也君は登校を
続けるようになりました。


たまたま登校した日、副担任の先生から「昼
休みに一緒にお弁当を食べよう」と誘われた
のをきっかけに、生徒相談室でこの先生と過
ごすようになったのです。


お弁当を食べながら、達也君は、オンライン
ゲームの話を副担任の先生にしています。


副担任の先生はゲームのことは全くわからず、
話についていけませんでした。


達也君は、ゲームの基本的なことから、一つ
一つ先生に教えてあげました。  


副担任の先生とのお弁当が始まってから、達
也君は学校を休むことがなくなりました。


でも、教室では依然として孤立していました。  


副担任の先生は、達也君に対する自分の関わり
がこのままでよいか不安となり、本人とお母さ
んの承諾を得て、主治医のところに相談に訪れ
ました。


主治医からは、「達也君は、先生という味方
を初めて見つけることができました。


先生も大変かもしれませんが、このまま一緒
のお弁当を続けてください」 と話しました。



※…卒業まで付き合ってくれた先生  


副担任の先生とのお弁当は、その後も続きまし
た。学年が上がって副担任ではなくなりました
が、この先生は卒業までお弁当に付き合ってく
れました。  


達也君は無事に卒業式を迎え、専門学校に進
学しました。


卒業後の診察時に、高校時代の一番の思い出を
聞いたところ、「先生とお弁当を食べた時間が、
一番楽しい思い出です。


先生はゲームのことを知らないのに、僕の話に
付き合ってくれていました。


親や弟でも自分の話を聞いてくれなかったのに、
先生はいつも真剣に聞いてくれました。


副担任の先生と一緒にいるうちに、なんだか元
気が湧いてきて、がんばろうという気持ちにな
ったんです」と話しました。



※…「味方」になるには「見方」を変えること  


私たち大人は、思春期の子どもたちを、どうし
ても「自分より未熟な存在」として見てしまい、
対等な関係を作ることが難しくなります。


不登校の子どもであれば、なおさらそういう見
方をしてしまいがちです。


その結果、大人は、子どもたちに「世の中の当
たり前」を押しつけることになります。


「できないこと」や「やらないこと」があるなら、
がんばってできるようになることが学校や社会
で生きていくために必要だと、子どもたちに教
え込もうとします。


しかし、そんな話を聞かされ、子どもたちがす
ぐに変わることはまずありません。  


達也君は友だちがおらず、家族も味方にはなっ
てくれませんでした。


そんななか、副担任の先生との出会いは、達也
君が変わる転機になりました。


この先生は、教師の立場から「がんばり」を一
方的に求めるのではなく、達也君が興味を持つ
オンラインゲームの話をひたすら聞き続け、達
也君を先生役として、ゲームの解説を受けました。


達也君を自分の意思や気持ちをしっかりと持っ
た一人の人間として認め、向き合うことを続け
ました。


先生が味方になってくれ、自分を認めてくれた
と実感できた達也君は、不登校を乗り越え、前
に向かって進むことができるようになりました。  


私たち大人が子どもたちの「味方」になるには、
まず、子どもたちに対する「見方」を変えるこ
と、ということでしょうか。 …


author: (武井明 精神科医)






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