貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編


















前回つづき


※…父と和解、母と姉の愛情  


ゲイボーイになって家族から縁を切られ、故郷に
帰れなくなる人は多いという。麻紀さんも自由に
生きてきた分、家族には迷惑をかけたと振り返る。


「“近所の人に『お宅の息子さんオカマになったん
ですね』と言われて、お母さんイヤだったよ”と言わ
れたことがあります。


でも母はそれがお前の生きる道なら、一流になり
なさいと見守っていてくれました」


確執があった父も麻紀さんが芸能界に入ると、
テレビに出演し、盛り上げようと一生懸命しゃ
べってくれた。


「父が亡くなった後、レコードがたくさん出てきて。
自転車で釧路中のレコード屋さんを回って何枚も
買ってくれていたことを知ったんです。


親の愛って深いなぁって思いました。今こうして
いられるのは、両親と兄弟姉妹たちが陰で支えて
くれたおかげだと感謝しています」  


麻紀さんは姉の幸子さん(85)と40年あまり一緒に
暮らしている。毎朝、幸子さんがつくる果物と野菜
のスムージーを飲み、夕飯を一緒に食べる。


幸子さんは料理上手で、毎年、麻紀さんの誕生日
パーティーにはご馳走をつくってゲストをもてなし
てきたそうだ。 


「今、コロナで仕事がないけど、借金がなくてよ
かったって。姉がお金のこともきちんとやってくれ
たおかげなの」  


麻紀さんの読書好きも、幸子さんが給料日の
たび本や漫画を買ってくれた影響だという。


一方、幸子さんも麻紀さんには感謝していると話す。
「麻紀は私が行ってみたいというところにあちこち
連れて行ってくれました。


香港で夜景を見たり、映画『ローマの休日』に出て
きた場所を訪ねたりもしましたよ」  


幸子さんの目に麻紀さんがいちばんつらそうに
映ったときは、麻薬所持の疑いで誤認逮捕され、
仕事ができなくなった時期だという。


「家にこもって、“仕事がしたい”と訴えていました。
なにより仕事が好きですから」  


2001年に40日間勾留された。後に冤罪で不起訴
になるのだが、麻紀さんが毎年企画から考えてつ
くり上げている年末のディナーショーなどの予定が
すべて中止になった。  


マネージャーの宇治田武士さん(51)も「ファンや
関係者に迷惑をかけてしまったことが、いちばん
堪えたようでした」と振り返る。  


思いもよらぬ空白ができ、麻紀さんは、幸子さん
や宇治田さんと冬のパリ旅行に出て、心の澱を
洗い流した。


「近所の人たちも“麻紀ちゃん、無罪でよかったね!
”と新聞に載った“カルーセル麻紀無罪”の記事を
見て喜んでくれました。


私が無罪だったから、麻取の人たちは全国各地
に飛ばされちゃったみたい。


でも、留置所にいる間に気心が知れた仲になって。
大阪で公演すると、麻取の人が来てくれたのよ!
(笑)」


「北海道内のゲイバーを渡り歩いていた10代の
ころ、真冬にストーブもなくて押し入れを開けたら
雪が積もっているような部屋で暮らしたこともあるわ。


今こんな贅沢な暮らしができて、好きなことをして
世界中走り回って、何の悔いもないわ。


本当に楽しい人生だったもの。生まれ変わって
もまた男でもない女でもない、“カルーセル麻紀”
になりたいと思ってるのよ」  そう言い切る表情は
晴れやかで、湿っぽさは微塵もない。  


※…春駒こと原田さんが語る。


「麻紀はたとえ湿っぽくなったとしても、自分で
解決してしまうからね。いつまでも悲しみとか苦し
みを引きずらないのよ。


だって、いちばん苦しいのは自分ですから。
そうじゃなくてもつらいわけでしょ、男が男を愛
してるんだから。自分で諦めるしかないの」  


原田さんも「また男性に生まれて男性を愛する
自分になりたい。結局私たち、自分がいちばん
好きな人が多いのよ」と笑い、多くの共通点を持
つ麻紀さんのことが大好きなのだと語る。


女と男という性別を超え、お互いに人として好きで
共鳴し合う関係が麻紀さんの周りにはたくさんある。  


自宅のリビングルームには交流のあった友人と
の写真や思い出の品が所狭しと飾られていた。


その特等席に置かれた石原裕次郎の遺影を指さし、
麻紀さんが語り出す。


「裕さんと知り合ったのも銀座のクラブに出ていた
から。あの人オカマが嫌いと聞いてたから、席に
つかなかったのよ。


でも盛り上げてほしいとマネージャーさんから頼
まれて、端っこの席に座ったの。そしたら“あ、
カルーセル麻紀だ”と喜んでくださって」  


石原はその場で自分の主演映画に麻紀さんを
誘い、麻紀さんのために台本を書き換えさせた
という。


「本当に可愛がってもらった。“麻紀、いま飲んで
るから来いよ”と言われたら、なにを置いても同棲
してる男を置いても、すっ飛んでいったわ。


裕さんとは一線を越えたことは1度もなかったし、
そうなりたいとは全然思わなかった。


ただ裕さんという人間が大好き、それだけだったのよ」  


また大親友だった女優・太地喜和子と2人で撮っ
た写真を手に取ると「喜和子はいい女だったよ~」
と目を細める。


「俳優座にいた峰岸徹の卒業公演を見に行った
ときにすごく目立つ女がいたの。それが喜和子で。


ロビーに出てきた徹と話してたら、“なんなのこの女、
あんたがカルーセル麻紀?”と言われて。


それからすごく仲よくなって、このソファでいつも
酔っぱらって裸で寝てましたよ(笑)」


太地は女優としての麻紀さんを認め、互いにアド
バイスし合うこともあったという。


「私の舞台を見に来てくれて、すごく褒めてくれ
たこともあったっけ。


喜和子が主演してた蜷川さんの『近松』を見に
行ったとき、“あそこで暖簾をくぐるとき、スッと入
るんじゃなくて、1回ちょっとためてみたらどうかな
?”と言ってみたら、


“そうか、やってみるよ!”と言って、次に見に行くと、
そのとおりにやってくれてたのよ」  


2月末、『徹子の部屋』に15回目の出演をした。


45年前に初出演したときと同じドレスをまとった
麻紀さんを黒柳徹子は絶賛した。


「コマーシャルの間に徹子さんに“(私のように)
45年前に出た人で、生きてる人います?”と聞
いたら、“1人もいませんあなただけです、


みんな向こうです”と(笑)。


私が長生きしすぎてるのかもしれないわね」 あと
どれくらいの命が残されているかわからないけれど、
あの世で待っている人たちに会えると思うと、死ぬ
のも怖くないと話す。


「でもね、昨年4月にやった脳梗塞も治っちゃっ
たし、12月に両足を手術して、また13センチの
ピンヒールもはけるようになったの


。“タバコは1日3本”を守って、命ある限り舞台
に立ち続けたいわ!」  


好きな仕事をして、好き放題恋をして、男女の
違いを飛び越えて多くの人に愛された、人たら
しの麻紀さん。


雑音はピンヒールで蹴とばして、涙はメイクで消
してきた。


麻紀さんがみんなを夢中にさせるのは、自分の
人生をいつも情熱的に生きているから! …













内閣府が2019年に行った調査によると、60歳
以上の人で万一治る見込みがない病気になっ
た場合、約半数(51.1%)の人が「自宅」で最期
を迎えたいと回答したことが明らかになった。


宣告されてから7年7か月生きた夫。



※…「この人が病人?」と言われるほど
普通な夫


主人は手術で「人工肛門」になってしまったので、
自宅に戻ってからはそのケア(ストーマケア)が
大変で。人工肛門は排ガスや排便を自分でコン
トロールできません。


腹部に造られた人工肛門部に袋(パウチ)を
貼り、そこにどんどん便がたまっていくんです。


そしてたまったらパウチを交換。すっごく食べる
人だから、食べている間にもパウチがどんどん
膨らんでいくんです。


交換のタイミングが難しくて、いつもパウチを見て
いたような感じでした。 しかも最初の頃はそれが
うまく貼れなくて、何度も貼り直して…


…1枚1100円くらいするのですけどね。人工肛門
にパウチの中央を合わせて、周りの皮膚にしっかり
密着させないとダメで、1ミリでもずれるともれてしま
う。水滴(便)が流れ出てしまうんです。


専門職の方に家まで来てもらって指導してもらい、
主人も時々病院で教えてもらって、だんだん覚え
ていきました。


自宅で過ごしながら、抗がん剤治療のため月に
2回くらい病院に通いました。


でも副作用らしいことは全くなくて、周囲から
「この人が病人?」と何度も言われるほど。
食欲も衰えなかったですし、抗がん剤治療も
苦しまなかったから最後まで続けられました。


ただ、どんなに食べてもだんだんと痩せては
いきましたね。 ------


※…余命3か月から、


振り返れば7年7か月の闘病生活―その間に
A病院に緊急的に入院したことが5回あった。


最後の入院は、亡くなる前年、2019年11月の
ことだった。 ------


突然高熱が出たんです。私が慌てて担当の先生
に電話して状況を説明すると、「病院まで連れて
きてもらえないか」と言われました。


主人を抱えるようにしてタクシーに乗り込み、
A病院に向かいました。彼の血圧は低下し、
危険な状態で即入院。


でも本人は病室に連れていかれながらも、「うちに
帰りたい。帰る。大丈夫」とうわごとのように繰り
返していたんですよ。


入院して1か月経って状態が落ち着くと、主人は
再び「家に帰りたい」とはっきり訴えるようになりました。


※…家で看取る選択肢


11月の終わり、私がお見舞いにいくと、主人がいる
個室に先生や婦長さんをはじめ看護師さんが10人
近く勢揃いしていたんです。


そして、 「もう最後かもしれませんから、おうちで
看取ったらどうでしょうか」 と提案されました。


主人も、「俺も死ぬなら家で死にたい」と言うんです。


でも私は自信がありませんでした。だから
「できません」と答えました。


主人のことはもちろん大切です。 けれども私が
倒れたらアウトでしょう。ずっと健康に生きてきた
のに、この頃は腰や背中が痛くて……。


電動ベッドですからスイッチ一つでベッドを動か
して体を起こせるのに、主人は私に「起こして」
と言うんです。


向かい合って両脇に手を入れて起こすのですが、
素人で起こし方が下手だから、すっかり体の節々
が痛くなってしまった。


夜は主人は1階、私は2階に寝るのですが、しょっ
ちゅう私の携帯に電話がかかってくるんですよ。


呼ばれるので、下に降りていって「何?」と言うと
「テレビつけて」とか些細な用件ばかり。寂しかっ
たのでしょうが、私は睡眠不足になりました。


幸い、私と主人の貯金がありましたし、このまま
個室に入院していてほしいと思ったんです。


だって何か高熱や呼吸困難のような緊急事態が
起きるたびに病院に連れてくるのも大変ですし、
そういった時の対処法をうかがっていても、よく
理解できないんです。


だからもうなんと言われようと、家で看るのは無理、
と思いました。


すると、そばにいた娘(40代)が「かわいそうじゃ
ない。こんなに家に帰りたいと言っているのに」
と、私に向かって言ったんです。


※…家で看取るための在宅看護をできるか


コロナ禍の2020年7月、市川さんは自宅で亡く
なった。享年83。


市川さんは75歳の時に「大腸がん」と診断され、
その時点でステージ4、「余命3か月」という医師
の見立てであった。


しかし、それから7年7か月もの日々を生きた。
最期は穏やかに旅立ったという。


大腸切除の手術が成功した後、入退院を繰り
返す中で、医者から「もう最後かもしれませんか
ら、おうちで看取ったらどうでしょうか」との提案が。


市川さん自身も「家に帰りたい」と訴える。


妻は、年齢的に介護する体力がないと思い、
「できません」と答えるが、そばにいた娘(40代)
がそれに反論。


「かわいそうじゃない。こんなに家に帰りたいと
言っているのに」と、妻に向かって言ったそうで


実は市川さんは50代で前妻を亡くし、60歳の
定年間近に現在の妻と出会った。


妻はその十数年前に離婚し、飲食店を4店舗
経営しながら一人で生きてきた。忙しく働いて
いたが、年を取って体が動かなくなった時に一人
じゃ寂しいかな……と思い始めた頃、友人から
市川さんを紹介されたという。


「でも、タイプではなかった」と、妻は言う。


ただ、自宅に遊びに行った際にレトルトごはんや
カップラーメンが山となっている台所を見て、「かわ
いそうになってしまった。


私はそういうのに弱いのよ」と肩をすくめた。


当時、市川さんの子どもたちは海外で働いて
いたが、再婚した年に娘が帰国。


以来24年間も、市川さん、妻、娘の三人暮らし
の生活だった。 -


血のつながりはなかったけれど、家族だと思って
きました。だから私も負けずに言い返しました。


「それならあなたは、仕事を休めるの? いつも
出張になると10日から半月も留守にするのに……。


仕事を休んで一緒に介護をしてくれるなら家に
連れて帰ってもいいわよ」


「仕事は休めない。出張もやめることはできない。
それなら私がデイサービスのような預かってくれる
施設を探します。


私がいない間はパパをそこに預ければいいんで
しょ」 「病人をそんなに簡単に動かせるわけない
でしょう。それに、いくら人を使っても無理よ」


「もう無理です。何と言われようと無理なんです」
ホームヘルパーさん? なかなかお願いできま
せんでした。…


次回・〈後編2へ続く〉






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