貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・森羅万象













私がふと目を上げると男の妻の目に涙が溢れて
いた。


私は重い事実をいずれ話す下準備、つまりショ
ックを和らげる目的で妻に説明したつもりであ
ったが、妻の涙を見た途端、それは妻が抱いて
いた不安の扉を開けてしまった後悔に変わった。


少しして妻の口から漏れ出た言葉は「私、一人
でこれからどうすればいいの、あの人なしで…
…」だった。


私は呆然として言葉を失った。


その頃の私には他人の運命を知ってしまった者
の責任と、その言葉の重みはまだよくわかって
いなかった。


まだ学生の殻を纏った経験の浅い色白の幼虫が
そこにいた。


男の運命の砂時計は逆さまになって時を刻み始め
ており、妻の砂時計も同じく逆さまになったこと
が若かった私にはまだわからなかった。


「でもまだはっきりとわかったわけではありませ
ん」 やっとの思いで妻に語りかけると、彼女の
表情が一瞬和らいだ。


私にはそんな言葉は慰めであることはわかってい
たが、自分の発した言葉が作り出した状況を好転
させるには、それしか思い浮かばなかった。


「病気には個人差があります。手術の効果、薬の
効き方にも差があります。それはある程度試して
みないとわからず、治療を進めながら考えていく
ことになります」


話の終わる頃には彼女の瞳には輝きが戻り、私は
やっと胸をなでおろした。


気がつくと額には汗がにじみ、動悸はまだ収まっ
ていなかった。私は彼女が病室に入るのを確認し
て詰所に戻った。





手術の1週間前に男と妻、そして男の両親に助教
授が「肺に真菌の塊があって、そのため胸水が
溜まっている。


真菌の塊とそれが散らばっている胸膜を切除する
必要がある」と手術の説明を行った。


そのあと私が男を「検査」と称して部屋から連れ
出し、助教授は「進行した肺癌であること」、
「手術をしても予後不良かもしれないこと」を
妻と両親に告げた。


しばらくして三人は男に会うことなく、硬い表情
で病棟をあとにした。


この当時、家族には病名を告げても患者には伏せ
ることが一般的だった。


往々にして「癌」は「カビ」、あるいは「おいて
おくと悪性になる腫瘍」と置き換えられていた。


伏せる理由は「患者が希望を失うから」とされ、
家族と患者の間にできる溝や家族の苦悩は顧みら
れることはなかった。


この時点で病名を告げなければ、そのあとに告げ
る機会はない。


嘘の上に嘘が重ねられ、いくつかの矛盾が露呈し、
患者は疑心暗鬼となって悪化する症状と相まって
気持ちは不安定となり、家族も抱え込んだ「本当
のこと」を隠すのに疲れ、その結果、関係がぎく
しゃくし、大事な最後の時間が剣呑なものになっ
てしまう。


多くの患者はどこかの時点で推測しているに違い
ないが、真実を知る怖さ、隠している家族への複
雑な気持ちもあって胸深く仕舞い込んだまま去っ
て行くことが多い。


しばらくして男の手術が行われ、私は第3助手で
執刀は助教授だった。


開胸すると水の溜まった胸きょう腔くうが現れ、
胸水を吸引すると肋骨側の肋膜ろくまくにも肺
側の肋膜にも一面に癌細胞の播種はしゅが認め
られた。


もともとの癌は直径わずか1㎝で中葉の胸膜直下
に認められた。


小さいが、できた場所が男にとっては不運だった。


胸膜直下の癌はすぐに胸膜を破り胸膜腔に散布、
着床し、あたかも種を蒔いたかのように見える
ので播種という状態となる。


この状態は進行癌に分類され、様々な治療法が
試みられるが、いろいろな方法があるというこ
とは決め手がないということで予後は極めて悪い。


「癌が胸膜を越えて肋間筋ろっかんきんにまで及
んでいたら手術は止めよう」 と助教授が告げた。


病理の結果は非情だった。


私は先に手を下ろした助教授に代わり、胸腔内に
抗癌剤を注入し、胸を閉じた。


手術後の男の回復は肺を切除していないこともあ
って早かった。さらに抗癌剤を胸腔内に2回注入す
ると胸水は溜まらなくなり、彼は良くなったと思
い込んで退院していった。


妻と両親には退院前に助教授が結果を説明した。


根治術はできなかったこと、癌細胞が発育する胸
膜腔を抗癌剤で癒着させ、水が貯まらないように
するが、それは根治にはなり得ないこと、予後は
1年以内であろうことを彼は説明した。


妻は毅然とした表情を変えなかった。


入院からこの瞬間までの妻の心の変化は誰にもわ
からないが、何かを決心したような気迫が感じら
れ、夫婦の周りには何者をも寄せ付けないような
雰囲気が漂っていた。…












私と友人は高校からの友達で、かれこれ30年以
上の付き合いで、その娘の事も知っている。


その子の結婚式という事で電話が来て出席する
事にした。


しかしその子、本当は友人の娘ではなく、友人
が20歳の時に生まれた妹だ。


なぜ妹を娘としていたのかと言うと、友人が21
歳の時に両親が事故で他界。 家族は兄妹二人と
なり、親の居ない家族として育てるよりも、片
親ではあるが父親の居る家族として育てた方が
妹のためにもなるのではと、彼なりに判断した
からである。


当時その事で友人から相談された時、私は凄く
反対した。


確かに妹の事を考えればそれが良いのかもしれ
ないが、お前自身はどうなるのか? 21歳やそこ
らで子供一人、しかも片親として育てる事は、
幾ら何でも無理があり過ぎる。


母親の事を尋ねられたらどう答えるのか?
そもそも戸籍を見られた際に気が付く。


祖父の元で育ててもらった方が良いのではない
か? それに友人自身の将来の結婚などの事もど
うするのか? それらの事を友人に尋ねると、


友人は父親母親方の祖父は既に病気で他界、親
戚に預けるのも嫌。それ以前に自身、両親が他
界し辛い時に妹の笑顔に救われた。


この子が無事育ってくれるのならば、自分の幸
せは二の次でも構わない。


そう言われたら私自身何も言い返せず、ただ
「辛い道なのかもしれないが、頑張れ」 とし
か言えなかった。


それから友人は家事と仕事、妹の育児とで一生
懸命だった。


私も「何か手伝える事はないか?」と時折聞いて
はみたものの、酒に付き合い話を聞くぐらいしか
出来る事は何もなかった。


私の知る限り、その子が友人が父親ではなく兄
という事を知っている様子はなく、また友人か
らそのような話を聞いた事もなかったので、上
手く行っているのであろうと思っていた。




その子の結婚式も順調に新郎の会社の方、友人
のスピーチなど全てが順調に進んでいた。


そして新婦が手紙を読み始めた。


よくある内容の父への手紙である。「お父さん、
今まで本当にありがとう」 そう言って娘さんは
泣いていた。 泣きじゃくっていた。


しかしそこで事態は変わった。 娘が一向に続き
を読まないのである。 そして首を横に振りなが
ら何か訴えている。


何が起こったのか解らず、周りはざわつき始めた。


次の瞬間、彼女の口から 「お兄ちゃん」 とい
う言葉が出てきた。 私は口から心臓が飛び出
るかと思った。


きっと友人もそうに違いない。何せ顔色が一瞬
にして変わっていた。


彼女は全て知っていたようである。何でも高校
生の時、書斎を整理している際に偶然友人の日
記を見つけ読んだらしく、その時に自分が娘で
はなく妹である事を知ったようである。


彼女は言葉にならないほど、泣きながら友人に
感謝の言葉を言っていた。 そしてそれと同時に
謝罪もしていた。


自分のせいで兄の人生を狂わせてしまった。


本当にごめんなさいと何度も謝っていた。 友人
は、 「それは違う。俺の人生はつまらないもの
じゃない。 お前がこんなに大きく育ってくれた。
それだけで俺には十分だ」 そう言っていた。


俺も自分の事ではないのにも関わらず涙が流れ
ていた。 そうして周りから拍手が送られ、何事
もなかったかのように式は進んで行き、結婚式
は終わった。




私は友人とその後、居酒屋へ行き酒を飲みなが
ら話をした。


話をしながら友人は妹の事を思い出し、涙を流し
ていた。


私はその時、友人に「お疲れ様」と言ってやった。
友人は笑いながら「いえいえ」と言い泣いてた。


友人が今一番楽しみにしているのは、孫が生まれ
る事らしい。 …





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