貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編
















※…
「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。その
名は中川泰宏。 中川が1995年から会長を務め
る「JAバンク京都信連」(京都府信用農業協同
組合連合会)の貯金残高は、1兆2567億円に達
する。


副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円
だ。JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員
数は、18万6000人にのぼる。


京都の農協で27年以上にわたってトップに君
臨しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰し
や悪質な地上げに手を染めてきた。2005年に
は「小泉チルドレン」として政界に進出し、
野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。





野中広務から下された密命プロジェクト 「農協
のフィクサー」として地歩を築きつつあった中川
泰宏に、野中広務から密命が打診されたことがある。


対北朝鮮外交のフィクサーに指名されたのだ。


飢餓に苦しむ北朝鮮に手を差し伸べ、拉致問題解
決の突破口をこじ開けたい。


その手駒として、中川が適任だと野中は判断した
のだ。


中川泰宏の知名度を一気に全国区に押し上げたの
が、JAグループ京都が行った朝鮮民主主義人民共
和国(北朝鮮)への食料支援だった。


その支援を中川に持ち掛けたのは他ならぬ野中広
務だ。野中は軽い気持ちで北朝鮮支援を中川に依
頼したが、まんまと中川の政治的なパフォーマン
スに利用されてしまった。


野中にとっての間違いは、一九九六年の夏、当時
京都府の八木町長だった中川に一本の電話をかけ
たことだった。


中川は『月刊テーミス』で、野中からの電話の
内容を明らかにしている。


「北朝鮮にコメを送ってくれないか(中略)


国交もない、承知の通り普通の国ではないが、
おまえならできる」


当時、北朝鮮は水害の影響などで食料危機にひん
しており、子どもが餓死しているといった情報も
伝えられていた。


この当時、野中は被差別部落出身者を優遇するこ
とで逆に差別を助長しかねない同和対策事業の廃
止に向けて汗をかく中川に一目置いていた。


野中は対北朝鮮政策においても、同和行政改革と
同様に中川を御せると考えていたようだ。


しかし、北朝鮮へのコメ支援要請は結果的に、中
川が政治力をつける絶好の機会を与えてしまうこ
とになる。


中川が北朝鮮への食料支援を行った九六〜九七年
は、彼が自民党公認で出馬を狙った参議院議員選
挙(九八年)の直前である。


中川は農業指導などの名目でたびたび北朝鮮を訪
問。ときには大勢の記者を従えて訪朝するなど、
一気に全国区の知名度を得て中央政界にアピール
することができたのだ。



※…
「日本人妻」の里帰りはなぜ実現したか


北朝鮮と日本の間には国交がない。そんな中、中
川泰宏は万難を排して日本から食糧を北朝鮮にも
ちこんだ。


それだけではない。見返りに「日本人妻の里帰り」
というビッグプレゼントを手にしたのだ。


1959年終わりから84年にかけて、在日朝鮮人の
「帰国事業」が推進された。


日本社会で差別と貧困にさらされた在日朝鮮人は、
「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮への移住を選
択した。


93,000人以上が北朝鮮へ渡った移住プロジェクト
によって、夫に随行した「日本人妻」が存在する。


片道渡航で北朝鮮に渡った彼女たちは、故郷を再
訪することすらできず苦しんでいた。


〈野中から北朝鮮支援要請を受けた中川の行動は
速かった。


早速京都府の農協にコメを提供させたり募金活動
をさせたりして、コメ五五トンや乳児用粉ミルク
などを調達。


物資の引き渡しのため九月には初の訪朝を果たし
ている。


それ以降、中川は七回も訪朝し、麦の作り方や
ヤギの飼い方といった農業指導を行った。


この取り組みのグランドフィナーレは翌九七年七
月の訪朝時、北朝鮮が、同国に渡ったままになっ
ている「日本人妻」の里帰りを認める談話を初め
て発表した場面だった。


日本人妻の里帰りは日朝政府間の懸案事項だった
が、両国間の合意ができていなかった。


その未解決案件を、中川は民間の立場で前に進め
てしまったのだ。


(略) 拉致問題により日本の世論は北朝鮮への
怒りに満ちており、しばらく北朝鮮の出方を見る
しかない局面だった。


にもかかわらず、中川は政府与党への十分な相談
もないまま日本人妻の里帰りや農業支援へと突き
進んでいった。


中川は著書『北朝鮮からのメッセージ』に、交渉
の経緯を誇らしげに書いている。


まず北朝鮮側から「どうしたら(JAグループ京都
による五五トンといった規模ではなく百万トン規
模の)コメ支援などで日本国民の理解が得られる
か」と質問があった。


中川は回答として、
(1)日本のマスコミの入国を認めること、
(2)日朝関係のネックになっている「日本人妻
問題」「拉致疑惑問題」を解決すること、という
二点を挙げた。


すると、北朝鮮側が(1)を認めると言い、その
結果、九七年七月に日本メディアの記者七人が同
行する中川の訪朝が実現した。


同書には、さも偶然であるかのように、記者七人
を従えて訪朝した際に、「突然、


朝鮮労働党が韓国や日本などの対外窓口として設
置した朝鮮アジア太平洋平和委員会のコミュニケ
として、記者団に日本人妻を返すと発表した」と
の記述がある。


他方で「私はそれまでの交渉で、ある程度(北朝
鮮が日本人妻の里帰りを認めると発表することを
予想できたが、


記者の皆さんには何も言っていなかったので、突
然、ビッグニュースが飛び込んできたことになる。


当然、その日の日本の夕刊に大きく扱われた」と
も記している。


中川は正直だ。それまで複数回訪朝していて、
「偶然」メディアが同行した三回目の訪問時に
大ニュースが発表されるというのは、いくら何
でも「でき過ぎ」だ。



※…
「外務省の方針に背くようなことをするなよ」
「日本人妻の里帰り実現」という北朝鮮からの
ビッグプレゼントを、中川泰宏はフィクサーと
しての自分の知名度を高めるために最大限利用
した。


マスコミの記者を前に、さんざん政治的パフォ
ーマンスを見せつけたのだ。


当然、食糧支援の言い出しっぺである野中広務が
おもしろく思うはずがない。


〈いま振り返れば、中川にメディアが利用された
ということになるが、中川のマスコミ操作術も
大したものだった。


メディア側としても、ベールに包まれていた北朝
鮮を取材できる貴重な機会をみすみす逃すという
判断はしづらかっただろう。



※…
記者向けのニンジンもぶら下げられていた。


訪朝に同行した記者の一人は、「現地で、北朝
鮮の中堅幹部が『(拉致被害者の)Bさんに会わ
せられるかもしれない。アパートの角部屋にい
る』と話すなど、期待を持たせる出来事があった。


しかし、拉致被害者に会えたことは一度としてな
かった」と打ち明ける。


中川は、北朝鮮が日本人妻の里帰りを認めると発
表してから二日後の七月一九日、日本への帰国途
中の北京空港で同行記者向けに会見を開き、関西
と関東の出身者の日本人妻が第一陣として帰国す
る可能性が高いことなどを明らかにして再び脚光
を浴びた。


中川は会見で、四月に訪朝した際、日本人妻の里
帰り問題が解決を見なければ、日本からの食料支
援ばかりでなく、JAグループが進めようとしてい
る農業支援も進めにくくなることを宋浩慶・朝鮮
アジア太平洋平和委員会副委員長に伝えたことを
明らかにした。


要は、自らの交渉によって北朝鮮から譲歩を引き
出したことをアピールしているのである。


その後、実際に日本人妻は帰国するのだが、その
一人は日本国内で「『日本に帰ることができたの
は両国政府の計らいだが、半分以上は中川会長の
おかげだと思っている』と、お礼の言葉を述べ、
帰国できた喜びを集まった人たちと分かち合った」


(JAグループの機関紙『日本農業新聞』九七年一月
一二日付記事)野中は、こうした中川の独断専行
ぶりを苦々しく思っていた。


前述の通り、野中が中川に依頼したのはコメ支援
であって、日本人妻の里帰り交渉などではない。


ところが、世間からは、日本人妻の里帰りも農協
の農業支援も野中の合意の下で、その「子分」で
ある農協組合長の中川が実行しているものとみら
れていた。


中川と記者が帰国した後、こんなことがあった。


京都市内のホテルのロビーで中川と記者が雑談し
ていたところ、野中がどこからともなく歩いて来
て、真剣な顔で「外務省の方針に背くようなこと
をするなよ」と中川に告げたのだという。


野中は、北朝鮮で身勝手に振る舞う中川に、記者
らの面前でくぎを刺したのだろう。…



※…次回《日本人が知らない戦後史の闇》



『野中広務を「猛毒」で潰せ!
小泉純一郎が「農協のフィクサー」を衆議院
議員に仕立てあげた過程が凄まじすぎた













激しい痛みをともなって、徐々に視界がぼやけ
ていった。


視力の低下が著しく入院を余儀なくされたとき
には、 とうとう「べーチェットさん」にかなわ
なくなったのかと思って、 悔しくて悔しくて仕
方がなかった。


厚生省指定の難病の一つであるべーチェット病だ
と 診断されたのは、高校三年生のときだった。


体育の時間にクラス全員で列を組んで マラソン
をしていたときのことである。 突然、足に劇痛
が走った。 こらえきれずに転倒した。


足の腫れがひかずに病院でいろいろな検査を受け
ていくうちに、 ベーチェット病だと診断された。


病名がわかっても、どんな障害が出てくるかとい
うことは、 その時点ではまだわかっていなかった。


体に宿ってしまった病と仲良くしようと、 私は
「ベーチェットさん」と名づけて、 なだめすかし
て十年あまりを平和に過ごしてきた。


新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをして
いた。 この平凡な生活が、ずっと続くのではない
かと思っていた。


いや、そう願い続けることで、病気を克服できる
と信じていたかった。


ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優し
くなかった。


目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。


難題を押しつけるだけ押しつけておいて、 一向
によくなる気配は見えない。


それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててし
まった。


十か月あまりの入院の末に、退院することにな
った。


回復したからではない。 濃い乳白色の世界は、
もう微動だにしなかった。


心配して、上京してきた母の腕につかまって、 週
に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。 外界との
接触はそれだけだった。


テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて仕
方がなかった。 私にとって見える世界が失われた
ことは、 世界が失われたことに等しかった。


ただただ、ベッドの上に縮こまって、何も考えた
くなかった。 一年六か月の間、私の巣ごもりは
続いた。


その間、母が私を守る防波堤になってくれた。


「がんばりなさい」とか「そろそろ再起をはかっ
たら」 などといったことは一言も言わなかった。


「いった豆でない限り、かならず芽が出るときが
くるんだから」。 母が繰り返し言ったのはその
一言だけだった。


そんな生きているのか、死んでいるのかわから
ないような 私の魂を呼び戻すきっかけとなった
のは、 大宅壮一さんがお書きになった『婦人
公論』の一文だった。


「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、人
生にもダブルヘッダーはある。  


最初の試合で負けたからといって、悲観すること
はない。  


一回戦に素晴らしい試合をすることができたのな
らば、その試合が素晴らしかった分だけ、惨敗し
て悔しい思いをしたならば、悔しかった分だけ二
回戦にかければいい。  


その二回戦は、それまでにどれだけウォーミング
アップを  してきたかによって勝敗が決まって
くる」 私の二回戦はこれから始まるのだと思った。


一回戦とは違って、目の見えない私で戦わなけれ
ばいけない。 だが、一年半というもの、二回戦を
戦う準備をさせてもらった。


もうウォーミングアップは十分だと思った。


いてもたってもいられない気持ちで 東京都の
福祉局に電話をかけ、戸山町にある 心身障害
者福祉センターを紹介してもらった。


目が見えなくなって、何から始めたらいいのか
わからない 私にとって、まず最初に必要なのは
一人で歩けるようになることと、 点字を読める
ようになることだった。


やっと外界と接触する心の準備のできた私を後
押しするように、 電話で相談にのってくださっ
た先生がおっしゃった。


「あなたは運のいい人ですね。  


ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムにあきが  
出たところなのですよ。明日いらしてください。  


明日来られなければ、他の人に順番をまわしてし
まいますからね」 舞い込んできた幸先のよさに
喜び勇んで、 新しい人生を出発することになった。


そんな私の二回戦の試合模様が、先に『ベルナの
しっぽ』という一冊の本にまとまった。


結婚して、子供を産み、盲導犬とともに暮らす 奮
闘ぶりが描かれている。


大竹しのぶさん主演のドラマとして、フジテレビ
でも取り上げていただいた。


こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて
思うのは、 生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことができるとい
うことである。


不幸のどん底にいるときには、どこまでも奈落の
底に 落ちていくのではないかと思えてくる。


だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。


その一つひとつの困難を乗り越えていくことが 生
きるということなのではないかと思う。


そして、一試合目がうまくいかなくても、人生に
はときに二試合目が巡ってくる。


そのためのウォーミングアップを続けていくこと
こそが、 次の一歩を踏み出すためにもっとも大切
なことなのだと思う。 … …







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