貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編















※…「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。
その名は中川泰宏。


中川が1995年から会長を務める「JAバンク
京都信連」(京都府信用農業協同組合連合会)
の貯金残高は、1兆2567億円に達する。


副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円だ。


JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員数は、
18万6000人にのぼる。


京都の農協で27年以上にわたってトップに君臨
しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰しや悪
質な地上げに手を染めてきた。


2005年には「小泉チルドレン」として政界に進
出し、野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。



※…野中広務との四半世紀近い確執


若かりし日の「農協のフィクサー」中川泰宏は、
鮮魚商、骨董品の転売、金貸しなど、さまざまな
稼業を転々としながら天性の経営センスを発揮し
てきた。


畜産・酪農業を始めたことがきっかけで、農協
(農業協同組合)との縁が生まれた。


異例の若さで京都農協の要職に就いたことによ
って、京都を地盤とする大物政治家・野中広務
との攻防戦が始まる。


中川と野中の確執は、2018年に野中が死去する
まで四半世紀近くにわたって続いた。


興味深いことに、かつての二人は傍から見て
「師弟関係」と思えるほどの蜜月ぶりだった
そうだ。


〈中川が野中に会ったのは貸金業と不動産業
を始めた二〇歳の頃だった。


八木町の交通安全協会の会長を務め、野中の
支援者でもあった父から「会っておけ」と言
われ、京都府議会議員(当時)だった野中を
訪ねた。


そのとき、野中が放った言葉に中川は後年まで
こだわった。


「海辺の松と不動産屋は真っすぐ育たん」


野中の言葉に対して中川は「おっさん(野中)
は自分で商売をしたこともなく、金もうけも
下手だが、要点を的確についた言葉だった」
と回想している。


野中は、中川が貸金業と不動産業を始めた男だ
ということは知っていただろう。野中は中川が
やろうとしている際どい商売を「海辺の松」に
たとえてあげつらうことで、自分に取り入ろう
とする中川に対し予防線を張ったのかもしれない。


だが、それは結果的に中川の闘争心に火をつけ
ることになった。


(略) 初対面でのけん制と反発という経緯は
あったものの、商売で伸し上がっていた二〇代
の中川と、府議会議員だった五〇代の野中は、
互いに利用価値があったことから次第に接近し
ていった。


野中は中川の実行力を頼り、ややこしい案件の
処理を持ち込むようになった。


中川が政治に関わるようになってからは、自分
を慕う若手の一人として一定の距離を取りつつ
もつき合った。


他方、中川も、野中の集会があれば参加し、最
前列で演説に聞き入り、選挙を応援した。


「はたから見ると二人は師弟関係のように見
えた」(地元関係者)。〉


※…
中川泰宏の丸刈りを「その頭なんとかならんか」


1988年に京都府の八木町(現:南丹市)で町議
会議員に当選した中川泰宏は、1992年に八木町
長選挙に当選して町長に転身する。


町長選挙は野中広務の息がかかった陣営と正面
衝突になったものの、選挙後に両者は和解して
手を結ぶ。


八木町長のポストを中川に奪われてからの、野
中の戦略の転換は速かった。


中川と敵対するのではなく、懐柔することを選
んだのだ。


中川も表面上は「ノーサイドの精神」を装った。
町長選挙当選後、野中にあいさつに行った。


「よく来たな、おめでとう」
「あわてるなゆっくりいけ」
「正義を求め、大道を歩け」
「やってはいけないことは年寄りに恥をかかせ
 ることだ」


これらは、あいさつで訪問した際、野中から掛け
られた言葉だ。


中川は「野中語録をたっぷり聞かせてくれた」と、
皮肉交じりに書き残している。


町長になった中川が困ったのが、町長の右腕とな
る助役の人選だった。


中川は古参の収入役に打診したが受けてもらえな
かった。ところが、野中に仲介を頼むと話はすぐ
にまとまった。


野中は人事で恩を売ることで中川との関係を修復
した。 中川は「(野中と)会うたびに町政のポイ
ント、勘所を教えられた」と書いている。


一方、「大変参考になったが、無視した意見も
あった」とわざわざ書いている箇所もある。


無視したのは髪形に関する苦言だった。野中から
「おまえ、その頭なんとかならんか、髪伸ばせよ」
と注意されたのだという。


高校卒業後しばらくパンチパーマにした他は、
ずっと丸刈りで通している中川は「ほっといて
くれ俺の趣味や」と言い返した。


すると偶然隣にいた広務の弟で、八木町の隣町
の園部町長をしていた一二三【※野中広務の弟】
が「そうや、そうや、個人の趣味や」と中川に
加勢。


広務は苦い表情で顔を背けたという。 これは
後の中川と野中兄弟の関係を暗示する象徴的な
場面だ。


というのも、一二三は広務と反目して、兄の政敵
である中川の側につくことになるからだ。


次回・中川を倒すために野中はどう動いたか?










日本人が「いいえ」を使っている場面を見たこと
があるかどうかについて、日本に20年以上住み、
日本語が堪能で、日本人が大多数の職場で仕事
をしているアメリカ人の友人にも確認してみま
した。


即座に返事が来ました。 ないね、と。
たしかに、アメリカ人はNOをカジュアルに使い、
軽快で合理的なコミュニケーションを選択して
きた。


アメリカ人はアメリカ人なりに忖度したり、遠回
しに言ったりということはもちろんあるけれど、


一方で、日本人は本当に「いいえ」を使わない。
ほとんど死語だ。 いいえの代わりに使う言葉は
「難しい」「厳しい」「検討する」「また今度」
「いつかね」「行けたら行く」な ど、ものすごい
バリエーションがあると。


ちなみに、このアメリカ人とはデーブ・スペクタ
ーさんのことです。


私たちは、NOを言えないというより、NOをあえて
言わないコミュニケーションを古来、選択してき
たのではないでしょうか。


NOを言わずに伝える方法を何とかして見つけ出し、
工夫してきた。


それが、最も洗練された形で息づいているのが
京都の文化ではないかと思うのです。


たとえば、京都では家同士でも300年ぐらいお隣
さんです。 しかし、300年もずっと隣同士でいる
となると、これはトラブルが起きたら大変なこと
になるわけです。


そういうところでは、本当は不満があって、困
っていて、イヤだなと思っていても、それを相
手の気持ちに火をつけてしまうことなく、うま
く伝える方法が必須になります。


そういったところで磨かれたコミュニケーション
が、あの独特のエレガントな方法ではないでしょ
うか。


東京で生まれ育った私から見ると、いかにも内容
そのものが毒であったとしても、やはりその伝え
方は洗練されていて、アートを感じさせ、憧れの
気持ちが生まれます。


隣同士の間柄でトラブルをできるだけ避けていく
のには言葉のアートともいうべき、言い回しの工
夫が必要とされます。


長期的に見たときに互いの心理的負担をできるだ
け下げ、互恵関係を結んでいけるようにするには、
常からの努力がいるということになります。


まさに破壊は一瞬、建設は死闘とまではいかずと
もたゆまぬ終わりのない努力、というのが、人と
人との間柄ではないでしょうか。


『エレガントな毒の吐き方』


『関係がそれほど深くない人から、無理な依頼を
されて断りたい。どのように返す?』 【


京都式の回答例の1】


(京都市に代々お住まいの女性に聞きました)
「いや、うれしおすけど、うちにはちょっと。


もっと上手にしはる方、探しまひょか?」 【


京都式の回答例の2】
(京都市在住の80代女性に聞きました)


「ちょっと考えさせてもろうて、かましまへんか。
ちょうど今さっき、恩義のあるお人からお願いご
とをされてしもてな。今、それで頭がいっぱいで
考えられへん。お時間いただきたいんやわ。すん
まへんなぁ」


京都式では「ちょっと」で濁した場合は基本、
拒否を意味する。


さらに、自分より適任者がいることを伝えて、相
手からの依頼に応えるつもりがないことを伝える。


イケズ度をより高くする場合には、「京都式の回
答例の2」のように、相手が自分にとって「恩義を
感じるレベルの人ではない」ということも暗に遠
回しに伝えられる言い方で。


人間関係においては、必ずしも「NO」を伝える
ことが正解でない場合が多い。


これは、人間関係だけでなく、一般的な外国との
外交においてもそれは言える。


はっきりと「NO」というと、相手の国民感情に
火をつけてしまうことがあるからだ。


だからこそ、婉曲に、そしてエレガントに伝える
必要がある。


※…
エレガントな言い方を身につけたい。
野信子氏の心に響く言葉より… …







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