貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・番外編


















※… 転職の日々…まさかの失業。


あちゃ~ なんとそれが今、コロナ禍に、まさ
かの失業中だ。あ~、うまい話には何かワケが
あるというのは本当だった。


私は深く情報も得ないまま、勢いでお見合い結
婚のように就職してしまったが、あっというま、
二年持たずに退職。


なんてことだ。切ない。コロナ禍に仕事を失った。
定年退職まで勤める予定だったのに。しかも、夢
を持って転職したのに。


その職場の私の部署、教員の十人のうち七人が
小学校の先生しか経験されていない教育委員会
の天下りの方ばかりだった。


もちろん、大学で教鞭をとっていたわけではない。
そんな方々が教授や准教授だった。


実務家教員と言うらしい。もちろん、研究しない、
論文書いたことない、業績なしの方々だった。


学位も研究業績もないのに大学教員? 信じられ
ない部署だった。


大学にこんなに「天下り」がいていいものなのか。
文部科学省は知っていたのか? 学科の設置審査
が、なぜ通ったのか不思議だった。


嫌な予感は的中した。新学科開設から一か月で、
教員による学生へのセクハラとパワハラざんまい
となった。


若い女子学生なのだから、おじさんに密室で触ら
れたら嫌に決まっているのだが、それをセクハラ
と知らない。


学科会議では、教員間で学生の家庭事情を中傷、
しまいには、学生たちに直接、傷つく言葉を授業
中に平気で言った。


結局、学生たちがそれらの教員に対するハラスメ
ントを訴えてきた。いやあ、またかい……。


私が学生の訴えの窓口となり、学長に教員による
ハラスメントについて直訴した。学長は、良識的
な方だった。


ハラスメントを問題視し、教員たちに改善を求め
た。しかし、罪を認めない教員たちは仲間でかば
いあい、恐ろしいことに、介入した良識的な学長
と副学長が先に辞任に追い込まれた。


この学科、理事会がバックにいたのか。結局、
ハラスメントにあった学生が二人、退学した。


そうなったら今度は、私にも「はやく辞めろ」と
いわんばかりの同調圧力がかかった。


常識よりも正義よりも同調圧力は強かった。


なんなんだ、大学と言うところは。なんなんだ、
この社会は。権力が横行し、腐りきっている。
やりきれない怒りと悩み、眠れない日々が続き、
不眠症になってしまった。


大学は夏休みに入り、授業も成績評価も終わって
いたので、夏休みの一か月間、同調圧力から逃れ
るため休職した。


そうでなければ、「本日、議題はありませんが会
議を開催します」という人たちだ。会議が大好き。
研究なんかする時間がないほど。私は大学教員と
してやるべきことはやっていた。


大学教員は、研究職だ。そして、長年の夢だった
科学研究費が承認された。


科学研究費とは、研究者として国がその研究を認
め、研究費を国が支払うもので、厳正な審査があ
り、簡単に得られるものではない。


私は国に認められる研究者として大学に貢献した
はずだった。大学はそんな教員を本来なら簡単に
やめさせてはいけない。


しかし、職場は、同調圧力集団の力の方が強かっ
た。 私の復職を産業医と新しく代わったばかりの
学長が認めなかった。


私の授業は休講にされた。退職するなら休講にせ
ず非常勤講師をあてがうことができるのだが、と
言われた。退職するなどとは言っていないうちか
ら、私の授業の代替非常勤講師はすでに決まって
いた。


これ以上、休講にはできない。学生に不利益を及
ぼすことはできない。退職するしかなかった。


午後五時過ぎに提出した退職願が即日受理された。


ひどい。精神的に参って寝込んだ。何も手につか
なかった。先のことは何も考えらえなかった。


しかも、この後、金の生る木だったはずのこの新
学科は学生が集まらず赤字財政、三年で閉じるこ
とになったことが私の退職後に決まった。


国民の税金を、大金を投じて使って作ったはずの
新学科。設立から数年で消失など、コロナ禍でな
ければ、大きく報道されていたはず。


コロナは、このような大学の闇をも圧倒したのだ。


失意のどん底にいた私を支えていたのは、子ども
たちの笑顔だった。母子三人の家族、思春期の子
どもたちだから色々あるが、お互いに腹を立てて
喧嘩しても、たいていは「ごめんなさい」でおし
まいだ。


夕食時は「今日は〇〇に乾杯~」と何かしらに乾
杯し、お笑いのテレビを観ては大笑い、とにかく
笑いあって過ごせていた。


子どもの笑顔の力は本当に不思議だ。そして、家
の中にイライラして怒る大人がいないのは、こん
なに安心できることなのだと改めて思った。


離婚の前後は、絶望の淵に立たされ、次男と何度
も一緒に死のうと思いつめていたのに。


「死にたい、死にたい」と、暴れ泣きわめく次男
を長男でも制止できず、警察の方の介入でやっと
落ち着いたこともあった。


退職したところで、子どもを失ったわけではない
し、ま、子どもたちと居られるからいいかなと思
うことにした。


離婚してから何度転職しただろう。どこに行って
もハラスメント、数年でこんな繰り返し。私はす
っかり疲れていた。










【魅力は一つに絞ったほうが伝わる】  


かつてアメリカのプロバスケットボールの世界で
スーパースターだったマイケル・ジョーダンの話
である。  


ナイキの営業担当者はこんなことを考えていた。
「あのマイケルがうちのシューズを履いてプレ
ーをしたら世界中の若者が真似したくなるはずだ」  


早速、マイケル・ジョーダンにコンタクトを取った。


「今度から試合に出るとき、うちのシューズを履
いてくれないか?」  


マイケルは「チームの決まりでそれは出来ない」
と断った。  


当時、彼が所属していた「シカゴ・ブルズ」は、
チームとして別のスポーツシューズメーカーと
専属契約を結んでいた。


プレーするときは全員そのシューズを履かなけれ
ばならなかった。それを聞いて担当者はがっかり
した。


しかし、マイケルの次の一言に飛び上がって喜んだ。
「この契約に違反したら5000ドル(約50万円)の
違約金を払わなければならないんだ」  


ナイキが勝利を掴んだ瞬間だった。


「1試合で5000ドルだって?10試合で5万ドル、
20試合で10万ドルか。その違約金はうちが払うよ、
マイケル」 ~~~  


その違約金のおかげで、ナイキはこんなコマーシ
ャルまで流すことが出来た。  


「マイケル・ジョーダンは違約金を払ってまで
ナイキのシューズを履いている!」  


さらにナイキはマイケルに履いてもらうシューズ
のネーミングまで変えた。「エア・ジョーダン」と。


たちまち「エア・ジョーダン」はバスケットボー
ルファンだけでなく、世界中の若者たちが欲しが
るスポーツシューズになった。  


よく考えると、ナイキにとって1試合5000ドル
の違約金は一回の広告宣伝費より安かった。  


シカゴ・ブルズと専属契約していたシューズメ
ーカーはナイキから莫大な違約金を手にしたが、
ナイキはその100倍以上もの売上を上げた。


そして「ナイキ」は揺るぎないブランドになった。


これがマーケティングだ。誰も損はしていない。


そのシューズメーカーより、ナイキのほうがちょ
っと賢かっただけだ。 ~~~~~~


上手なマーケティングのコツは、消費者に気づい
てもらうこと、覚えてもらうこと、そのために
目立たせる。


そして強調したいことを如何に一つに絞るか。
これが重要なのだそうだ。  


一つの商品を売ろうとするとき、複数ある特徴
を羅列してしまうとかえって消費者の心には残
らない。


一つに絞るために他のたくさんの情報を捨てる
ことは忍び難いが、効果は絶大だ。  


例えば、酸っぱ過ぎてとてもそのままでは食べ
られないレモンは、ビタミンB群や食物繊維、
クエン酸など複数の栄養素がある中、ビタミン
C一つで勝負した。  


その結果、レモンはビタミンCの代名詞となり、
料理に欠かせない食材となった。  


PRしたいメッセージも一つに絞って10秒以内
で語れるものがいいそうだ。


あの五つ星のザ・リッツ・カールトンホテルの
メッセージはこうである。  


「私たちは淑女・紳士にお仕えする淑女・紳士
である」 アメリカの地方紙の一つだったウォール
・ストリート・ジャーナルは次の一言で全国紙に
なった。  


「至るところで成功する男たちはウォール・
ストリート・ジャーナルを読んでいる」  


自己PRも一つに絞ってみよう、一言で。 …







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