貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編












なぜか溢れ出た涙


「この紋所が目に入らぬか。こちらにおわすお方
をどなたとこころえる。おそれおおくも前(さき)の
副将軍・水戸光圀公にあわせらるるぞ」──


多くの人が一度は耳にしたことがあるこの名セリフ。
時代劇シリーズ『水戸黄門』(TBS系)で、徳川光圀
の側近・格さんこと渥美格之進役を演じたのが俳優
の伊吹吾郎さん(77)だった。


伊吹さんには生みの母と育ての母がいる。  


現在、体外受精をはじめとする生殖補助医療が発達し、
精子や卵子を第三者から提供を受けて妊娠・出
産する夫婦が増えている。


提供者ではなく、出産した女性を子の母、夫がその
子の父と法律で定められているが、子の知る権利
を認める法律はなく、出自を知ることができず苦悩
する子らの声を聞くようになった。


どうすればいいのか。親子の絆とは何なのか。


伊吹さんは親子の絆について、どう思っているのか。
2人の母が亡くなった今だから明かせる、正直な気
持ちを聞いた。


※・・・
生みの母の顔を知らず、父親の妹を「お母さん」
と呼んでいた  


伊吹さんは、北海道の南西部に位置する爾志
(にし)郡熊石村(現・二海郡八雲町)で生まれ、
農作業や漁業など自給自足で生計を立てる祖父
母に育てられた。


「オヤジは僕が生後12日目に亡くなりました。家の
屋根から落ちた背骨のケガの後遺症です。


それで、祖父母は僕の生みの母親に“まだ若いの
で青森の実家へ帰れば再婚の話もあるだろう”と
いうことで、僕の3歳上の姉を連れて青森へ帰ら
せたんです。


だから、僕は母の顔を知らないまま、オヤジの両親
に育てられました」  


伊吹さんの父親は7男2女──9人きょうだいの三男。
祖父母の家は、伊吹さんの父親のきょうだいも一緒
に、大勢で起居するにぎやかな家庭だった。


「そのおかげか、寂しいと感じた記憶はないん
ですよね。


思春期にぐれることもまったくなかったし。じいさん、
ばあさんが愛情深く育ててくれたおかげかなとも
思いますね。


じいさん、ばあさんは昔の人だから、食事中は
正座で黙食だし、きれい好きで掃除や整理整
頓などしつけに厳しくもあったけれど、僕のことを
『親がいなくてかわいそうだ』と気遣ってくれて
いるのは感じていました。  


じいさん、ばあさんから両親について聞かされた
ことはありません。でも、隣近所の人に『本当の
お母さんは青森にいるんだ』などと噂されていた
ので、自分の境遇は小さい頃からわかってはい
ました」  


寂しく感じなかったのは、父親の10歳年下の妹
・みつ江さんの存在もあった。みつ江さんを母親
のように思って育ったという。


「叔母を『お母さん』と呼んで慕っていました。
叔母は僕が4、5歳の頃には札幌へ出稼ぎに
出てしまったので、ちょくちょく帰ってくると僕は
甘えてまとわりついていました。


叔母が恋人とデートをしようと出かけてしまうと、
泣きながら追いかけていったりしてね(笑)。
叔母が生涯、独身だったのは、僕のせいかも
しれません」


18歳で生みの母を知りなぜか滂沱の涙  


転機が訪れたのは伊吹さんが高校を卒業し、
東京の国士舘大学へ進学するとき。上京の
途中で生みの母・百里さんの暮らす青森へ
寄り、対面することになったのだ。


「親族会議で『一度、会っておいたほうがいい
だろう』という話になったようでした。そう聞か
されると、僕も興味が湧いてきて『どういう人
なのかなあ。会ってみたいな』と思いました。


それまでは会いたい、と思ったこともなかった
のですが。 育ての母親と青函連絡船で青森
へ渡ったら、船着き場で母親と母方の祖父が
待っていて、すぐに『あの人がお母さんだな』
とわかりました。僕の顔とよく似ていたんです。  


港からバスに乗って、母方の実家の五所川原
へ向かったのですが、母は僕の洋服の裾を
つかんで、2人がけの席に並んで座ろうする
んですよ。


僕は照れくさくて母の顔を見られなくて、何を
話したらいいかもわからない。その日は雨で、
窓側に座った僕は母に背を向け、バスのガラス
窓を雨粒が伝って流れ落ちるのを、ただずっと
眺めていました。  


母の実家に着き、バッグに入れて持参した
僕の幼い頃の写真を見せると、母があれこれ
欲しがって何枚か選んでいました。


夜は生みの母と育ての母のあいだに並んで
寝ましてね。育ての母はいびきをかいて寝て
いるのに、生みの母は『置いていきたくて置
いていったわけじゃない』などと言いながら、
ずっと泣いていました。


何というか……複雑な気持ちでしたね」  


母の辛く悲しい思いを初めて知り、父方の
実家でのびのび育った伊吹さんには戸惑
いもあったのだ。


「でも、ちゃんと会って良かった。育ての母は
男勝りでしっかり者でしたが、生みの母は正
反対の静かでおとなしい人でした。


僕の中には生みの母に似た面もあり、生みの
母がどんな人か知ることができて、やはり腑に
落ちる、というかね。


姉も僕によく似ていましたし。ああ、血が繋がって
いるんだな、と感じました。  


翌日、僕と叔母は汽車に乗って東京へ向かった
のですが、駅へ見送りにきた姉はずっとうつむい
ていました。


出発のベルが鳴ると、僕も急に胸をしめつけ
られて涙がバーッと流れてきてね。


見られるのが恥ずかしくて、汽車の中の洗面
台へ駆けて行って顔をジャブジャブ洗ったのを
覚えています」  


なぜ涙が出たのか。理由はわからないが、
そのときの切ない気持ちは、今も鮮明に記憶
に残っているという。


生みの母と育ての母が存命の間は気を遣った  


生みの母との青森での別れは、交流の始まり
だった。


「母は地元の役場勤めの人と再婚していて、
僕が俳優になったとき、そのご主人が僕をとり
あげた新聞記事を母親に見せてくれたとか。
母はビックリしたけど喜んでいた、と後に聞き
ました。


僕が結婚し子どもが生まれると、東京まで孫の
顔を見に来てくれたり、ちょこちょこ上京して来
てくれました。  


でも、叔母は『今さら何しに来てるんだ』って
嫌がってね。嫉妬したのでしょう。


叔母が東京へ遊びに来ることもありましたから、
なるべく2人が東京でかち合わないようにしたり、
お互いの話をしないようにしたり、気を遣いました」


育ての母・みつ江さんは4年前に、生みの母
・百里さんは25年ほど前に亡くなった。


伊吹さんにとっては育ての母・みつ江さんへの
思いが強いという。


「生みの親より育ての親、と言いますが、僕の
場合はそれがよく当てはまるんです。


生みの母を見ていても、育ての母の姿が重なって
見えてしまう。やはり育ての母とは僕が幼い頃に
生活を共にしていましたから、思い入れが強い
んですね。


親子の絆とは、そういうものではないでしょうか。  


育ての母は僕がまだ売れない時代、『がんばれ』
と応援してずっと仕送りをしてくれました。


おかげで、僕は下積み時代にも一切、アルバイト
をしたことがなかったんです」  


みつ江さんは伊吹さんが売れてからも、「私が
育てた子よ!」と自慢して回るようなことはせず、
陰ながら応援し続けてくれたそうだ。…










悩める若い人に・・・背中を押してもらう  人間と
はおかしなものである。


自分には夢がある。夢というほど大げさではなく
ても、「これはやりたい」とか「こんな風になりたい」
という漠然とした希望をもっている人は多い。  


ところで「積極的」と「消極的」があるが、「なにか
になりたい」というのが積極的なら、「自分のこん
なところを直したい」というのは消極的な希望と
言えるだろう。


どちらでも本人にとっては真剣だ。  


真剣で、自分が希望して、自分が決めたこと
なのに、いざ、やろうとしても「明日でいいや」、
「まあ、後にするか」といつまでも手をつけられ
ないことすらある。


自分の希望なのだからすぐやればよいのに、
それができない。 人間の心というのは実に
不思議なものである。  


意志の弱い人、または自分で意志が弱いと
思っている人は「自分は意志が弱いから」と
あきらめる。でも、それも違うように思う。


私はかなり意志の強い方だ。それでも、私も
自分の希望や自分のイヤなところを直せない。  


どんなに意志が強くでも人間というのは自分
では、ちょっとした希望に向かってすることも
できないようだ。


※…
時にオリンピック選手などのように頑強な人が
「目標に向かって前進するモデル」になるが、
そんな人は希だ。


おそらく報道されない裏では人間らしい苦しみ
があるだろう。  


それじゃ、夢も希望もないじゃないかと思い
がちだが、そうではない。決定的な方法が
あるのだ。  


妙齢のご婦人がいるとする。すこし古くさい
言葉(妙齢)を使ったのは、歳を特定したく
ないからだ。ともかく妙齢の女性だ。


その女性が二人いる。一人は可愛い小学校
3年生の子供がいる。一人は独身生活を謳歌
している。  


ある秋の日曜日。その日は小学校の運動会
だ。お母さんは朝5時に起きてせっせとお弁当
を作る。三段重ね。それも子供が喜ぶように
カラフルで、しかもキャラクター入り。それに
2時間をかける。  


お母さんは何の苦痛もない。朝早く起きることも、
お弁当一つにそれだけの手間をかけることも。


なぜ、苦痛はないのか? それは子供を喜こ
ばせよう、他の子供に負けないお弁当を持た
せよう、という一心だからだ。  


独身女性は朝が辛い。できるだけゆっくり
起きて、どうせ自分だけだから朝食もカッ
トしがちだ。  


どうしてこんなに差が出来るのだろう。


それはお母さんは愛する子供に「背中を押
されているから」である。


見かけは「子供のお弁当を作っている」と見
えるが、実は「子供に背中を押されている」
のである。  


そう、自分の夢を実現し、自分の欠点を直す
には、自分の意志ではできない。背中を押す
何かが必要だ。


一番良いのはお母さんにとっての子供のように
「愛する人」だ。愛する人に背中を押されれば、
苦痛は幸福に変わる。  


でも、人生には愛する人に巡り会わないとき、
別れたとき、そしてその時期を過ぎたときがある。


そんな時には、なにか別のもの、自分にとって
背中を押してくれるものを自分で作るのだ。  


明日から朝7時に起きるのだ、俺のプライド!
と決意しても良いが、それだけではすぐへこ
たれる。


できればそれを公言し、できなければ友達に
おごる約束をする。それもとびきり高い方が
良い。それで後を押してもらう。  


私が人生を楽に過ごせるようになったのは、
これに気がついたからだ。


それからというもの、辛いことも辛さは半分に
減った。いや、時によってはあのお母さんの
ように本来は辛いことなのに、自分では幸福
に思うことすらある。  


どんなに簡単でも良い。どんなものでもいい。
なにか背中を押すものを探すことだ。


口うるさいお母さんがいれば、まだ背中を押
してくれる。  


でも、それも無くなって、自分の為に自分の
意志でやるほど辛いものはない。…






×

非ログインユーザーとして返信する