貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・歴史への訪問








ある日の事、吉四六さんは馬にたきぎを積んで、町へ売りに
行きました。 「たきぎ! たきぎはいりませんか~?」  


こう言いながら町を歩いていると、欲張りで有名な風呂屋
の主人が、吉四六さんを呼び止めました。  


ちなみにこの風呂屋は、以前、吉四六さんをだまして
馬ごとたきぎを手に入れた、『餅屋の値段』の餅屋の
友だちです。  


もっとも、その餅屋は、後で吉四六さんに痛い目に
あわされましたが。 …


「おい、そのたきぎは、一わ、いくらだ?」
「はい、一わ、十文でございます」


「そうか。では、その馬に乗せてあるのを全部買って
やろう。みんなで、いくらになる?」


「はい、全部買ってくださるなら、五十文にしておきましょう」
「よしよし。では、五十文を受け取れ」 「ありがとうございます」  


値切りもしないで買ってくれたので、吉四六さんは、
ほくほくして馬の背からたきぎを降ろしました。


「では、みんなで、六ぱでございます」 すると風呂屋
の主人は、怖い目をギロリとむいて、口をとがらせました。


「なんだこら! まだ、残っているではないか!」
「えっ? そんなはずはありません」
「馬の背に、くらが残っているじゃないか!」
「えっ?」


「おれは、馬に乗せてある物を全部買う約束をした。
だから馬の背に乗っているくらも、買った事になる。
どうだ、文句があるか!」


「あっ、これは、しまった!」  吉四六さんは、思わず
叫びました。「どうだ、吉四六さん。おれは餅屋とは、
ひと味違うぞ。わはははははは」  風呂屋の主人は
餅屋の仇討ちをしてやったと、手を叩いて大喜びです。


(そうか、あの餅屋と風呂屋は友だちだったんだ。これは、
油断したな)  さすがの吉四六さんも、素直に馬からくら
を下ろして、こそこそと帰って行きました。  


でも、これで引き下がる吉四六さんではありません。  


その翌日、吉四六さんがひょっこり風呂屋ののれんから
首を出しました。「おお、吉四六さん。なんだ、またたきぎ
を売りに来たのか?」  主人は勝ち誇った顔で、番台の
上から声をかけました。


すると吉四六さんは、にっこり笑って、 「いや、今日は
別の用事で町へ来たのだが、あまりにも寒いので風呂
に入りたいと思ってね。


風呂賃は、いくらだい?」
「風呂賃は、十文だよ」 「そうか。しかし、おれだけじゃ
なくて、友だちも入りたいと外で待っているんだ」


「じゃ、二人で二十文だ」 「でも、その友だちは、とても
大きい奴で」「はっはっはっ。いくら大きくたって、風呂賃
に違いはないよ」「そうか。じゃあ、友だちを連れて来るよ」  


そう言って吉四六さんは風呂賃の二十文を払って外に
出て行きましたが、やがてパカパカと大きな足音がしたか
と思うと、番台の前に馬の顔が現れて、「 ヒィーーン」 と、
いななきました。  


風呂屋の主人は、飛び上がって驚きました。 「うあっ! 
吉四六さん、乱暴をするな。馬は外につないでおきな」


「なに、この馬も一緒に湯に入るんだよ」
「ばっ、馬鹿な!」


「だって、風呂賃は、ちゃんと払ってあるだろう」
「では、吉四六さんが言っていた大きな友だちとは、
この馬の事か?」


「そうさ。この馬が、おれの大きな友だちさ。では友だち、
一緒に入ろうか」


「ま、ま、待ってくれ!」  風呂屋の主人は、すぐに番台
から飛び降りると、 「吉四六さん、おれが悪かった。
風呂賃もくらも返すから、どうかそれだけは、かんべん
してくれ」 と、平謝りに謝ったそうです。・・・












私たちは、 生まれた時からなんでも身の回りに揃っていて、
何不自由なくここまで過ごすことができました。

どうにも出来ないような天災を除き、 個人的な不運やトラブル、
ちょっとした幸せに一喜一憂し、 時には、 「私って駄目な
人間だ」 「私には何もないんだ」 なんていうセンチメンタル
な気持ちに悩んだこともありますが、 総じて「幸せ」な日々
を過ごしすことができたと思っています。

ただ、そんな毎日を送れること、 当たり前のように明日が来る
ということが、 実は誰かの犠牲の積み重ねの上にあるのだ、
ということも確かなのではないでしょうか。

まだ私が学生だった頃、 学校の課外活動の一環として、老人
ホームへの慰問や ボランティアにお邪魔する機会が多くありました。

小さい頃からおじいちゃん、おばあちゃん子だった私ですが、
老人ホームのあの独特の雰囲気や臭い、 何となく自分たちの
過ごす日常とはかけ離れた世界のような印象を受け、 その活動
があまり得意とは言えませんでした。

学生の私たちに出来ることと言えば、 施設内のちょっとした掃除
や洗濯の手伝い、 そして入居者たちの話し相手になることでした。

掃除や洗濯なんかはいくらでも出来ましたが、 入居者たちを相手
に過ごす時間は、 私にとってとても苦痛でした。 何とか会話が成り
立つ相手ではあるのですが、 どうしても同じ話の繰り返しだったり、
急に感極まって泣き出してしまわれたりすると、 どうしていいか全く
分からずパニックです。

特に困ったのが「戦争」の話をされた時です。 テレビの再現ドラマや、
毎年終戦記念日になると組まれる特番で、 何度か見たことがあるので、
戦争の悲惨さや恐ろしさ、 そういったことに対しては、私なりに理解
しているつもりでした。

しかし、実際に経験した人から当時の話を聞くと、 何だか分からない
けれど「違和感」を感じてしまうのです。 このおじいちゃんがそんな
勇ましいことを? と、どうしても結びつかないのです。

今、こうして誰かの手を借りなければ、 身の回りのことができない
人たちが、本当に…?と。 きっと心のどこかで私はひとつの「物語」
のように 受け取ってしまっていた部分があるのだと、今にして思います。

そんなある時、私たち学生は、 入居者の方々、スタッフの方々に向けて、
歌の発表をする機会を設けてもらいました。

話し相手になるよりは、こちらの方が気が楽だと思い、 その日は随分
リラックスして参加することが出来た私。 家に帰ったら、あのテレビ番組
を見ることができる、 なんてのんきに考えていました。

私たちが歌ったのは、誰もが口ずさめるような童謡です。

入居者の多くが手拍子をしながら聞いてくれましたが、 ある人が
途中から歌を口ずさみながら、 涙を流していることに気が付きました。
周りをよく見ると、そのような人がたくさんいるのです。 またいつもの
ように、何か思い出したのだろう、 …と思っていました。

けれども、その施設からの帰り道で、 同行していた先生からこんな
話を聞きました。 泣いている入居者のひとり、 違った意味で泣いて
いる方がいたのだということ。 その違った意味を聞き、 私は心の中で
大きく変わるものがあったのです

多くの人が昔を懐かしみ、思い出し、切なくなって泣いている中、
その人だけは私たち学生に対して、 「悔しい」という想いを抱いて
泣いていたというのです。

自分の子どもが生きられなかった年月を 生きている私たちに対する
悔しさ。 歌を歌うことさえも注意されていたあの頃、 歌は何よりも自分
の支えだった。 その大切な歌を、何の気持も込めずに歌う私たちへ
の怒り。 その方は気が付いていたのです。

私たち学生の多くが「仕方なしにボランティアに来ている」 という事実に。
そして、もしこれからもそんな気持ちなら、 もう二度と来ないでほしいと、
何度も何度も、 先生とスタッフの皆さんに掛け合っていたのだそうです。

そのことを聞いて、私は心底恥ずかしい気持ちになりました。
すべて見抜かれていたのです。

二度と来ないで欲しいと拒否までされたのです。

私たち多くの学生が、そのことを聞いて、 とても深く反省しました。
気持ちを入れ替える必要性を、素直に感じたのです。 その後も私
たちは慰問を続けましたが、

今までとは違う気持ちでその施設を訪れるようになりました。
私たちに対して、どの方が悔しい思いを抱いたのか、 それは
特定することは出来ません。

ですが、誰に対してもそれまでのような、 いい加減な気持ちで
接することはなくなりました。

すると、不思議なことに、今まで煩わしいと感じていた 様々なこと
がとても暖かく感じられるようになったのです。

手を握られれば嬉しいと思い、 泣いている方を見ると、胸がきゅっと
痛みました。 それは同情ではなく、心が近づいた証拠なのだと、
先生は私たちに教えてくれました。

この人たちがいたから、今の私たちが生きているんだということ。 感
謝や敬意、そしてどんなに歳をとって 行動がのんびりになってしまっても、
尊敬の気持ちをもって接することの大切さは、 一緒に心を寄せてみな
ければ分からないことなのかもしれません。・・・








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