貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・歌物語












※…
1972年に「昭和放浪記」を書いた阿久悠は、歌詞
が出来上がったときにいい手応えがあったので、
凡庸な演歌の作品で終わらないようにと、あえてポッ
プス系の小林亜星に作曲を依頼した。


その後に隠れた名曲と呼ばれたことについて、
阿久悠はこのように述べている。


これは演歌好きの人からは、隠れた名曲のように
言われている。別に隠したつもりはなかったが、
ただもう一つ売れなかっただけである。


それでも、詞ができた時も、曲がついた時も、レコ
ーディングが終わった時も、なかなかの盛り上がり
で、もしかしたら、伝説的な大ヒットとささやかれた
のだが、結局は隠れた名曲どまりであった。


この「昭和放浪記」はねらいうちのように、水前寺
清子のために書いた。


水前寺清子は1970年に放映されたテレビのホーム
ドラマ『ありがとう』が高視聴率を取って、シリーズ化
されたことから俳優としても人気を博していたが、歌
手としてはヒット曲が途切れている状況にあった。


新進気鋭の作詞家としてヒットメーカーになってい
た阿久悠に、がらりと作風が変わる危険を見越した
うえで楽曲を依頼したのは、歌でも新境地をひらき
たいという目論見があったからだろう。


1971年から72年にかけて阿久悠が作詞した作品
のリストを見ると、ほとんどがポップス系の曲であっ
たことがわかる。


そのなかで演歌と呼べそうなものは、わずかに
内山田洋とクールファイブの「この愛に生きて」と
「恋歌」、そして藤圭子の「京都から博多まで」ぐ
らいだ。


だから当時の阿久悠には、水前寺清子のトレード
マークともいえる応援歌、いわゆる元気が出て威勢
のいい歌の路線を継承するつもりはなかったという。


このとき作曲を指名された小林亜星は1年前に阿久
悠とコンビを組んで、「ピンポンパン体操」という幼児
向けの楽曲で思わぬメガヒットを飛ばし、その余韻が
さめない頃だった。


作詞するにあたって阿久悠は、劇画か任侠映画
のような人物設定にしたうえで、場所もはっきり
昭和初期の女郎屋とわかるようにした。


だが1コーラスが4行の典型的な演歌の歌詞だっ
たので、小林亜星の書いた曲は見事過ぎるくらい
に演歌そのものという作品になった。


自分たちの新しい面を発見した阿久悠と小林亜星
はレコーディングが終わった後も、いい作品が出来
上がったと思って満足していた。


だから関係者たちもヒットを予感していたらしいが、
実際にレコードが発売されると意外なことに、まっ
たくといっていいくらいヒットしなかった。


小林亜星はヒットしなかった要因のひとつとして、
編曲とサウンドについてこんな感想を述べている。


なかなかドラマチックな、映画の1シーンを見てるよ
うな歌です。ちょっと浪曲調のところがあり、小杉
仁三さんという方のアレンジがモダンジャズ的な
アレンジで、ちょっとその違和感がありすぎたかも
しれませんが、ぼくにとっては素晴らしいアレンジ
で、もう一度世に問いたいと思っている曲です。


同じように「いい曲だ」思う人がわずかとはいえ存在
していて、ごく一部でだが評判になったのは事実だ。


そんななかに、やはりしばらくヒット曲に恵まれてい
なかった都はるみがいる。


彼女が「昭和放浪記」のような作品を歌いたいと
スタッフに希望を出したことから、阿久悠と小林
亜星による「北の宿から」という大ヒット曲が誕生
することになった。


またこの曲のおかげで映画スターの高倉健との
縁ができたと、小林亜星は著書の中でこんな経緯
を明かしている。


あるとき、突然俳優の高倉健さんから手紙とジョニ黒が
一本届きました。今はジョニ黒なんて三千円くらいで
売っていて、それほど重宝がりませんが、その当時は
大変なものでした。


そして手紙には曲をつくってほしいとの依頼がした
ためてありました。どんな曲かというと僕も気に入っ
てる曲の一つなのですが、阿久悠さんの作詞の
「昭和放浪記」。水前寺清子さんがうたった、ああ
いう歌を作ってください、ということだったのです。


小林亜星はすぐに「つくりましょう」と手紙で返事
を出したが、それからずっと曲をつくることができ
ないまま、6年の歳月が過ぎてしまった。


そして1978年に公開された高倉健主演の映画『冬
の華』で、ヤクザの親分役を引き受けて出演した
ことから、東映の京都撮影所で初めて対面する
ことになった。


僕は、ジョニ黒だけ飲んじゃってすいません、必ず
つくりますからといって謝りました。健さんは忘れて
いたのか、優しいのか、そんなことあったかなと言
ってごまかしてくれましたが、それからつくれない
まま、またなんと10年くらいがたってしまったのです。


結局のところ、最初につくってほしいという手紙と
ジョニ黒が届いてからおよそ20年が経って、小林
亜星は旅行先だったイタリアのベニスに滞在して
いたホテルで、急に歌詞と曲が一緒に浮かんでき
て、高倉健にふさわしい楽曲を作ることができた
という。…


するともう20年も経ってしまったというのに、高倉健
から「あんなに義理堅い人はいない」と妙に感激さ
れて、恐縮してしまったと語っている。


その後は1995年にNHKの連続ドラマ『刑事 蛇に
横切られる』の主題歌として、その名も「約束」とい
う曲を作ってレコードが世に出て、23年越しの約束
を果たしたのである。 …
















今、世界は激変の最中にあります。 この30年ほど
のあいだで、人びとの働き方、価値観、そして生き
方、すべてが大きく変化しました。


なぜ激変したのか。 変化の原動力となったのは、
テクノロジーの進化です。


インターネット、スマートフォン、ソーシャルメディ
ア(SNS)、人工知能(AI)。 そのほかさまざまな新
しいテクノロジーの誕生によって、今もなお世界は
その姿を変え続けています。


世界が変わるとは、言い換えれば「新しいゲーム
がはじまった」ということです。


たとえるなら、『スーパーマリオブラザーズ』の時代
が終わって、『マリオカート』の時代がはじまった
ような。


操作するのはマリオやルイージといった同じキャラ
クターたちですが、画面が横にスクロールする世界
から、画面の奥へと進んでいく3Dの世界になります。


ルールもゴールも遊び方も異なる、まったく別の
ゲームです。


こうして新しいゲームがはじまったとき、なにより先
に求められるのが「新しいトリセツ(取扱い説明書、
ルールブック)です。


『スーパーマリオブラザーズ』のトリセツはもう役に
立ちません。 『マリオカート』のルールを教えてく
れる、新しいトリセツが必要なのです。


「これからの社会を生き抜くための新しいルール」
は4つです。


ルール1 GIVE ?与える人になろう
ルール2 OPINION ?自分の意見を育てよう
ルール3  PARTY ?頼り頼られる仲間をつくろう
ルール4 DIVERSITY ?ちがいを楽しもう


『激変する世界で君だけの未来をつくる4つの
ルール


1.与える人になろう 与える人になるためには、相
手の視点に立つこと。 自分が贈りたいものではなく、
相手が欲しいものを贈ること。 そして、すぐにでき
るのは「情報のギブ」。


おすすめの動画や、本、講演会など。 大事なこと
はギブの量をこなすこと。 情報のギブなら、いくら
やってもコストはかからない。


2.自分の意見を育てよう 最近イラっとしたこと、怒り
の感情のうらに「自分にとって大切にしていること」
が隠されている。


怒りは、自分が大事にしていることをないがしろに
されたから出てくる。


また、自分の中の「好き」なことを分析してみる。
好きなことに没頭したら「人より得意なこと」ができる。


3.頼り頼られる仲間をつくろう 落ち込んだときに、
この人に相談しようと思われるような相手になること。


相談しようと思う相手は、「信頼している」「信用して
いる」という人間性で選んでいる。


複数のコミュニティに属することも大事。 そして、
大切なことは自立していること。


4.ちがいを楽しもう みんな違って、みんないい、
ということ。 それは、それぞれの「正しい」を受け
入れること。


現代は「ちがいを楽しむ」が強みになる時代。
「ちがいを楽しむ」ことができれば、あらゆる変化
も恐れずに、「知らない」に満ちた世界を楽しむ
ことができる。 ……








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