貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・THEライフ


















※…子供を殺した親は、何年で戻ってくるのか


現在日本で起きている殺人事件の過半数が、
親族間で発生しているという。


実に殺人の半分以上が、肉親による犯行なの
である。


親族間の殺人でも、昔から一定数あったのが、
親が幼い子供を殺す「子殺し」である。


子殺しの発生件数は年間数十件だが、表沙汰
にならない事件を含めれば300件前後あるという。


にもかかわらず、日本の刑法において、子殺し
をした親に科せられる罪はさほど重くない。


出産直後の新生児を殺害する嬰児殺しの場合
は、懲役3年前後。2人殺害しても懲役5~6年だ。


虐待でも揺さぶり死の場合は、無罪~懲役3年
ほどで済み、無理心中(親は未遂で子供だけが
死亡)の場合は執行猶予で済むことが多い。


※…
無理心中するも「自分だけ死ぬ決心がつかなか
った」3児の母…


温泉街で育ち、長女の瞳を出産するが夫とは
すぐに離婚、瞳の子育ては自らの親に任せ、
その後できた夫と2児をもうけた弓子。


しかしその実の母親の弓子が、幼い妹弟を殺害
した時、長女の瞳は専門学校に通う16歳だった。


瞳は弓子の再婚に加えて、それまで自分を育て
てくれた祖母を病気で失ったことで、一時期心が
荒み、高校へ進学しなかった。


そしておばが紹介してくれた理容室で日中は
見習いをして働き、夜は理容関係の専門学校
へ通っていたのだ。


事件の報を聞いたのは、地元の大きな祭りの日
だった。それは瞳に大きな衝撃を与えた。


弓子(母親)たちとは距離をとっていたとはいえ、
実の母親が妹と弟を殺害したのだ。



※…「もう終わったことなのに」


裁判では有罪判決が下され、弓子は女子刑務
所に収監された。後に聞いたところによれば、
懲役8年だったという。


女子刑務所に弓子が入った後、瞳の胸に次の
ような思いが膨らんだ。


お母さん(弓子)が妹と弟を殺した理由を知り
たい。 真実は、弓子にしかわからない。


瞳は毎月のように女子刑務所へ行き、弓子と
面接を重ねるようになる。それは瞳にとって、
あまりに大きな不条理を受け入れるのに必要
な行動だった。


しかし、刑務所の弓子は、そうした瞳の切実な
思いを理解しようとしなかった。面会で瞳が事件
のことを尋ねると、毎回のらりくらりとはぐらそうと
するのだ。


問いつめるような言い方をすると、逆上してこう
声を荒げる。 「もう終わったことなのに、なんで
しゃべらなければならないの! 


私はこうやって罪を償っているんだからいいじゃ
ない!」


そのくせ、毎月のように送ってくる手紙には、巷
で起きた家族殺人を例に「物騒な世の中になっ
たので気を付けてください」と書いたり、殺した
二人の子供の供養を自分の代わりにしておいて
くださいと頼んできたりする。


瞳は弓子の真意を測りかねていた。


※…
しばらくすると、弓子は瞳に金の無心をするように
なった。手紙に刑務所での不自由さを長々と書き
連ね、これが必要だ、あれを買ってほしい、と言っ
て何万円もの差し入れを求めてくる。


瞳は理容室の見習いで得る少ない収入から支払
うが、弓子は毎回当然のように受け取り、翌月に
はまた現金の差し入れを要求する。


瞳は当時を次のように語る。


「私は毎月お金に困っていました。それでも払い
つづけたのは、あの方(弓子)から文通や面会を
拒否されるのが怖かったのかもしれません。


事件のことも、反省の言葉も聞いていないのに、
関係を終わらされたくない。そんな思いで、ずる
ずると要求を聞き入れてしまったんです」



※…このままではいけない


この間、瞳は結婚をし、子供も授かった。だが、
何年経っても弓子からは事件を真剣に受け止め
ていると思えるような言葉は語られなかった。


それどころか、事件のことも、死んだ子供たちの
ことも忘れてしまったかのようだった。


そして八年間の懲役が幕を閉じるのである。


懲役を終えた後、弓子は実家にはもどらずに
更生保護施設に入所した。出所後に行先のな
い人たちを預かり、社会復帰のサポートをする
施設だ。


だが、弓子が選んだ自立の道は、瞳にとって
信じがたいものだった。


彼女は風俗店で働きはじめ、さらには店長と
恋仲になって同棲をはじめたのである。


彼女は急に羽振りがよくなり、瞳に連絡をして
きては、瞳の一人息子にプレゼントを与えたり、
外食に連れ回したりした。


弓子の外見は会うたびにけばけばしくなってい
った。10代のギャルが持つようなブランド品を
手にし、つけまつ毛をし、ど派手な化粧をする。


しまいにはプチ整形まではじめた。瞳はそんな
母親に愕然とするしかなかった。彼女は語る。


「あの方は(弓子)は、第二の人生を楽しもうと
していました。きれいに着飾って、恋愛をして、
おいしいものを食べ、孫をかわいがる。そういう
願望をかなえようとしていたのでしょう。


私はそんな彼女に戸惑っていましたし、距離を
測りかねていました。だって、あれだけの事件を
起こしておいて、そんなふうに生きようとするなん
て、人としてありえないじゃないですか」


事件によって人生を踏みにじられた瞳にして
みれば、当然の心情だろう。だが、弓子はそん
なことを気にかける様子もなく、ただ自由になっ
た生活を謳歌し続けた。


瞳の我慢が限界に達したのは、しばらくしてか
らだった。このまま、事件のことをうやむやにさ
せるわけにはいかない。


そう決意し、瞳は正面から事件のことをどう思っ
ているのか問いただしたのである。


弓子は目を吊り上げて反論した。 「やめて! 
あのことは、私の中で終わったことなんだから。
私はそのために刑務所に行って、あんなつらい
思いをしたのよ。罪は償った。だから、今になっ
て、そんな話をしないで!」



※…加害者家族を理解し、寄り添うことの難しさ


彼女にとって、すべては終わったことであり、思い
出すことですらなかったのである。瞳はそれを聞
いて、むしろ気持ちが吹っ切れたという。


この人は人間として壊れている。もう何を話しても
ムダなのだ。そうあきらめがつくようになった。


彼女はこう言う。 「子供の頃、私はあの方のことが
まったくわからなくて、傍にいるのが怖くなりました。
たぶん、それが正しかったんです。


だからあの方は事件を起こしたんだし、まっとう
に生きられない人なんです。それなのに、私は
そうじゃないことを望んでしまった。


そのこと自体が間違いだったと認めざるをえなく
なったんです」 それ以来、瞳は弓子と縁を切る
ことにした。


彼女とつながっていることで、自分だけでなく、
夫や子供にまで悪い影響が及ぶことを危惧し
たのだ。


あの人は何も変わらない。今までも、そしてこれ
からも。 それが、今も変わらない気持ちだという。


※…
このように見ていくと、子殺し事件の後に、家族が
置かれる過酷な状況がわかるのではないだろうか。


家族にしてみれば、加害者である親は普段から
言動に問題があり、距離を置きがちだ。


親はそういう孤立した状態の中で、子殺しという
最悪の事態を引き起こす。


家族は、事件に巻き込まれたことで、何が起きた
のか、あの人は何者だったのかということを明ら
かにしなければならなくなる。


自分の身に起きた不条理を解明したいと思うのだ。


だが、事件を起こした当の本人は、どこ吹く風で、
刑務所にいる間も、出所後も淡々と自分の人生
を歩んでいく。


周りはそれに絶望し、苦しみ、縁を切る……。


特に子殺しの場合、親の病理が深くかかわって
いるケースが多い分、こういう状況が生まれやす
いといえるだろう。


※…
第三者がこうした加害者家族の苦しみに寄り添う
のは非常に難しいということだ。


家族がそれを吐露することはまれだし、周りがそれ
を受け入れるのは簡単なことではない。


だから、家族は人知れぬところで何年も何十年も
苦しみつづけなければならない。


事件の加害者と被害者には光があたりがちだが、
その家族に支援の手が届くことはほとんどない。


だが、殺人事件の半数以上が親族間で起きて
いる今、家族支援という観点が社会に求められ
てくる。…













※…「人生を照らす言葉」


晴れの日もあれば、嵐の日もある。
それが私たちの人生です。


そういう人生を歩む中で、幸せを掴むには
どうしたらよいのでしょうか。


すべてが思いどおりに計らわれることを望み
ながらも、様々な厳しい状況が襲ってくるの
が人生です。


大事なのは、人生の苦難はそれを受け入れて
こそ離れることができるし、苦難を受け入れた時、
通常では見つめられない深い幸せが存在して
いることに気づけるということです。


私の講演会でのことです。


一人の女性が私の話を聞きながら、ハンカチ
を使おうともせずに涙を流し続けている様子
が目に留まりました。


「きっと思い当たることでもあるのだろう」とは
思っていましたが、講演が終わり、受講者から
の質問の場面になった時、彼女が手を挙げて
こう話し始めたのです。


「私の体の中は洞窟と一緒なのです。


これまで8回手術をして、こんな空っぽの体で、
どうして生きているのかお医者様も不思議で
たまらないと言われています。


それなのになぜ、私がこうして元気で生きられ
るかと申しますと、実は私には知的障碍の20
歳の息子がいるからなんです」


彼女はその子が生まれて間もなくご主人と離婚。
彼女を必要としている息子さんのために、今日
まで手術を重ねながら死に物狂いで働いてきた
のでした。


勤めを終えて家に帰った彼女を、息子さんは
まるで子供のように手足をバタバタさせて喜ん
で出迎えてくれたといいます。


喜びを満面にした顔を見る度に日々の苦労が
吹っ飛ぶというのです。


「この子を残しては死ねない」


その思いこそが彼女を突き動かし、生かす
原動力でした。


私は講演の中で、幸・不幸というものは客観的
に計り知ることはできない。苦しみの極みを積
極的に受け止めて生きていく時、苦しみは生き
る深い喜びをもたらしてくれる、と話しました。


彼女はその話を聞いて、知的障碍の息子を持つ、
ボロボロの体の自分でも、我が子の顔を見て幸
せを感じ取ることができることに気づき、これまで
味わったことのない深い感動が込み上げてきた
そうです。


息子さんは生まれた時、3年生きればいいと
宣告されました。…


20歳の誕生日に赤飯を炊いて、ささやかながら
お祝いをした時、息子さんは彼女の顔を見ながら
「おかあさん、ありがとう」と伝えました。


その言葉は単なるお礼ではなく、彼女にはまる
で、自分を成人になる今日まで育ててくれたこと
への深い感謝の思いのように感じられてならなか
ったといいます。


講演からしばらくして、私のもとに彼女から一通
の手紙が届きました。


息子さんが亡くなったことを知らせる文面でした。
ところが、そこには悲壮感のようなものは全くあり
ませんでした。


「私は幸せなことに、こうしてまだ生かされており
ます。あの子の笑顔が、しあわせに生きてゆくよう
にと呼びかけているのです」


苦しさを受け入れた時、初めて出てくる輝きと
幸福感がそこにはありました。  ・…。








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