貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・歌物語













※…
子供の頃から歌手になろうと思ったことはなかっ
たんですよ。最初、お稽古ごとは童謡を習って
いました。


でも、ラジオからは美空ひばりさんや三橋美智也
さんのヒット曲が流れている。子供ながらに「どん
ぐりころころ」みたいなのは嫌、歌謡曲を習いたい
……。  


たまたま近所に歌が好きなご夫婦がいらして
「いい声だから、歌謡曲を習わせたら」と言っ
てくださって、歌謡曲の学校に習いに行きました。


生徒の半分以上は歌手になりたいのに、私は
その気が全然なくて。子供のクラスに入って楽し
く歌って過ごしました。  


当時は年に1回、日本コロムビアの全国歌謡
コンクールがあった時代です。


各地の大会を勝ち進んできた代表が日比谷
公会堂で一堂に会して決勝大会で歌い、優勝
した男女各1人が歌手デビューできる。


だから、歌手になりたい人はみんなチャレンジ
しました。私より後から学校に入ってきて優勝し、
コロムビアからデビューした人も3人いたほどです。


私はというと、予選を受けて一回も受からなかった。
それで大学に進学するかとか、歌謡学校もやめよ
うかと迷っていたんですね。


そんな時に大阪のキングレコードが歌がうまい新人
を探しているという話があって、学校が歌を吹き込
んだテープを東京のキングに送ったんです。


それを聴いてキングが何人かテストしたいという中
に私も選ばれました。どうせ受からないし、歌をや
めるキッカケになると思って、オーディションを受け
ることにしました。  


1964(昭和39)年の春のことです。


東海道新幹線が10月1日に開業、五輪の開催
は10月10日から。大阪との間は特急で6時間
くらいかかっていたのが4時間に短縮され、東京
はどこも工事、工事でものすごい勢いで変化して
活気にあふれていた。


一度東京を見ておくだけでもいいかなと気楽に
考えて上京しました。  


ところが、受けてみたら「才能があるし、東京に出
てきませんか」と言われ、意外でした。


でも親は歌手になるのに反対で、私自身も積極
的に歌手になるつもりはなかったのですが、大阪
に戻ったら「いつ出てこれますか」と何度も電話が
かかってきました。



※…上京したら、もう曲ができていました。


デビューも6月20日に決まってとんとん拍子。
歌手になるって割と簡単だなと生意気にも思
いました。


所属はキングの中の芸能部。すぐにキングの
スターの三橋さん、春日八郎さん、ペギー葉山
さん、江利チエミさん、岸洋子さんにお会いす
ることもできました。


当時はレコード会社が制作する歌番組があっ
た時代で、新人歌手として歌うこともできました。
でも、三橋さん、春日さんにお願いして地方巡業
について回って、前座で歌わせてもらいました。


新人なのにお客さまから拍手をもらえてこんなに
楽しくて幸せなことはない。なおかつステージの
袖からスターの生の声を聴くこともできる。


そんな日々が12、13年続きました。 当時は歌
番曲全盛。歌手はテレビに出て何十万枚のヒット
曲を出す華やかな時代です。


でも、私はとても充実していて売れたいとか、何
万枚のヒットを飛ばしたいとか考えたこともなかっ
たし、人を羨ましいと思ったこともなかった。


今日も気持ちよく歌えたし、いい曲だなと思える
だけで十分……。


※…
そんな私が変わったのが今のスタッフと「女の港」
との出合いです。そこまで20年かかりましたね。  


スタッフが言うわけです。「僕たちが大月みやこを
一生懸命つくっているのに自分だけいい気持ちに
なっていたらダメ。曲を聴く人に届けてくれないと
困る」。


上がってきた「女の港」は星野哲郎作詞、船村徹
作曲。レコーディングで初めてお目にかかったら、
おふたりとも「もっと聴く人に届くように歌ってほしい」
とスタッフと同じことをおっしゃる。


プロフェッショナルとしては10人聴いてくれたら
7人に感動を届けないといけない。そう思いました。
ああ、私はそんなこともわからず、落第生だった
んだわとちょっと悩みました。遅かりし、ですよね。  


ショックだったのは体調がよくて、いい気分で最高
にいい声が出たかなと思った時に「今日、調子悪
い?」と真逆のことを言われた時ですね。


それで「女の港」を境にそれまでとは歌の作り方
を変えました。わからないようにナチュラルに。  



※…「女の港」は83年発売。


スタッフが「この曲は絶対にアピールする」という
自信があって、発売後1年8カ月は新曲を用意
しなかった。


30万枚のヒットになって紅白に出場したのが86年。
発売から1年以上すぎていたので、レコ大の資格
はありませんでした。


紅白は96年まで10回出場。92年「白い海峡」
で第34回日本レコード大賞を受賞した。


「女の港」を出した時にキングは売りたいから
スナックとか夜のキャンペーンの予定を組んで
いたのに、私は断った。


押し売りは嫌なんです。それは今も変わりません。
やっぱり歌手としては落第生なのかな(笑い)。…















この言葉を教育理念に掲げている 福岡市にある
私立立花高等学校。 500名を超える生徒のうち、
入学者の約8割が不登校経験者ですが、その後
は9割の生徒が毎日元気に登校するようになり、
7割は3年間で卒業していくといいます。


不登校生徒たちの心をいかにして変えていくの
か。 齋藤眞人校長が語った「その独自の教育
哲学」とは…


私どもがまず為すべきことは「理解と支援」であり、
学校に行くという最初の階段を高く感じている
生徒のための踏み台や、笑顔になれる居場所
を用意することです。


そのために学校の授業を単位制とし、地元の公
の施設を利用した学校外教室や スクーリング
(課外活動)等への出席も単位として認め、通常
の登校への足がかりとしています。


加えて、校内で立ち入りを禁ずる場所をゼロに
して、 カウンセリングルームをはじめ、どこでも
教師や他の生徒と 相談や触れ合いの時間を
持てるようにもしています。


当校ほど職員室に大勢の生徒が 出入りしてい
る学校はないでしょう。 そうした中で教師や他
の生徒たちとの関係を深め、 元気に登校できる
ようになった子が数え切れないほどいるのです。


中学時代にほとんど登校できなかったある生徒
は、中国の二胡(にこ)という楽器に大変興味を
持っていました。


そこで、授業に出席する代わりに 別室で毎日
二胡の練習をさせたところ、 担任も驚くほどの
才能を示し始め、卒業後は中国の楽器演奏や
雑伎等のエンターテインメントを手掛ける会社
を自ら立ち上げたのです。


当校の創立55周年式典で披露してくれた 彼の
舞台は大反響でした。


彼のことを、単に授業に出られない子ではなく、
やりたいことがある子と見てあげられたことによっ
て、彼の内なる可能性を開花する手助けがで
きたのだと思います。


彼ばかりではありません。イキイキと登校してく
る子から、 学校に来るだけでも精いっぱいの
子まで、 一人ひとりのポテンシャルが異なるこ
とを理解し、受容し、できることに目を向けていく。


すべての子を救うセーフティーネットでありたい
という思いを、私は強く抱いているのです。


私自身の原点を辿ると、 一人の恩師の姿が脳裏
に鮮やかに甦ります。


それは、吹奏楽に打ち込んでいた中学・高校
時代に 指導を仰いだ日比野先生です。


キリスト教に一生を捧げ、学内の修道院で 生活
をしながら音楽を指導してくださいました。


毎日朝昼晩の3回レッスンがあり、その都度宿題
をいただく。


大晦日に「今年も1年お世話になりました」とご挨
拶をすると、「それじゃあ、明日10時ね」と事もな
げにおっしゃる方でした。


そのありがたさを実感できるようになったのは
何年も経ってからでしたが、 文字どおり365日、
休みなく、しかも無償で、ご自分のすべてを教
え子に施してくださったのです。


忘れ得ぬ出来事があります。 無事卒業を果たし、
心ばかりのご謝礼を封筒に包み、母と一緒にご
挨拶に伺った時のことです。


先生は断固として受け取ろうとしません。


こちらも気持ちが収まらず、無理やり置いて帰り
ました。


すると、先生から「明日10時に学校に来なさい」
と電話をいただき、 翌朝先生のもとを訪ねると、
百貨店に連れて行かれました。


先生は私の目の前で、前日お渡しした包みを
そのままお店の方に渡され、こうおっしゃった
のです


「この子にぴったりのスーツを  つくってあげ
てください」  ……








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