貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・歌物語

















3月1日にインパクト抜群の新曲「こころ万華鏡」
を発売した山内惠介さん。


紅白出場8回を数え、今や演歌界を支える
スターの一人だが、人生を変えた一曲は
ものごころがつく前から母親の腕の中で聴
いていた


美空ひばりの最後の演歌「みだれ髪」。
まさに演歌の申し子というべき、縁と出
会いがあった。


母は美空ひばりさんの大ファンで、毎年来ら
れる福岡市民会館のコンサートには欠かさず
見に行っていました。


僕はそんな母に連れられ、膝の上でひばり
さんの歌を聴いて育ちました。


会場では「お子さんが泣いたら外に出てくだ
さい」といわれたそうですが、泣かずにおとな
しく歌を聴いていたそうです。  


ひばりさんは1989年に亡くなられましたが、
生前最後の演歌として出された歌が「みだ
れ髪」でした。僕が5歳の頃です。


初めて聴いた時からすごいインパクトを感じ
ましたね。僕はほとんどものまねするような
感じで「髪のみだれに 手をやれば」と歌い、
最後はファルセット(裏声)で「涙をしぼる」
と親戚の前で歌っていました。


裏声まで……とみんな驚いていたけど、僕は
予想通りって(笑)。


歌詞は理解できないけど、悲しい歌だということ
はわかりました。母の腕の中で子守歌のように
聴いて自然と覚えて、歌えた感じでしたね。



※…
星野哲郎先生から「君のような新人を待って
いたんだ」と


「みだれ髪」は音域が13度あります。当時ひばり
さんはご病気をなさっていましたが、作曲家の
船村徹先生には“歌いやすい、やさしい歌には
しないで”とおっしゃって、ひばりさんが普段は
使わない高音も入っている曲になったそうです。
最後まで挑戦されていたんですね。  


星野哲郎先生がお書きになった歌詞もすてき
ですね。「涙をしぼる」の1番もいいけど、2番の
捨てた人の幸せを祈る「性かなし辛らや重たや 
わが恋ながら」も。3番の春は二重に巻いた帯が
秋には三重に巻いてもまだ余るなんてたった2行
ですべてを表現している。


芸術そのものだと思います。  


僕が言うのはおこがましいですけど、ひばりさん
にとっては執念の歌だと思います。


87年に「みだれ髪」を発売する前に、大きな病気
をされています。それでも、演歌、歌謡界をこの
一曲で盛り上げたい、活性化させたいという熱い
思いを感じます。


自分の命を燃やしてもう一つ花火を打ち上げたい。
そんな作品だったのではないでしょうか。  


僕のデビュー曲は星野先生が作詞してくださった
「霧情」です。


僕が星野先生が作詞した「みだれ髪」を歌ってい
たことを知ったディレクターが星野先生にお願い
してできた曲です。


「黒髪指に 巻きつけて 霧の波止場をさまよえば」
で始まりますが、「みだれ髪」を彷彿させる歌を作っ
てくださいました。


先生は「ひばりさんの歌を歌って育ったというから、
なおのことうれしい。君のような新人を待っていた
んだよ」と喜んでくださった。


僕がデビューできたのはまさに「みだれ髪」が結
んでくれた縁。僕を演歌の世界に導いてくれた
歌だと思います。  


紅白に初出場することができた2015年に初めて
ひばりさんの青葉台のご自宅に伺い、ご子息の
(加藤)和也さんと対談させていただきました。


憧れの方のご自宅にお邪魔して仏間に案内して
いただき、手を合わせ、「やっとお会いできました。
今年は紅白に出場できるように頑張ります」と
お話ししました。



※…
華やかな新曲「こころ万華鏡」リリース


作曲の村松崇継先生はクラシックの方なので
すが、「実は僕は子供の頃から演歌と民謡で
育ったんだよ」とおっしゃられて。


先生のメロディーを聴くと、クラシックとはいっ
ても、僕とそんなに遠くない、違ってはいないな
と思いました。


もしお願いできたら、すごい化学反応が起きる
のではないかと期待が高まりました。  


先生も「山内惠介のフルコーラスを作りたかった」
と言ってくださって、最初は静寂から始まり、徐々
にリズミカルになって、


「この一曲に山内惠介の声が万華鏡のように光る
ように作った」と説明してくださいました。


松井五郎先生の「いのち まっすぐ生きてみろ」
の歌詞も曲にピッタリ、ピントが合った感じです。  


先生は「ひばりさんに『お祭りマンボ』、北島三郎
さんに『まつり』があるように、


山内が『こころ万華鏡』を歌って日本を華やかな
お祭りムードにしてほしい」と言ってくださった。  


この歌が加わったことで僕のステージもダイナミッ
クになると思っています。…













※…
小林さんが家庭における子どもの 教育がいか
に大切かを身にしみて 感じたのは昭和30年6月、  


ただ一人の娘に突然、自殺されたときからです。    
小林さんは長野で中学校の 校長をしていました。  


人さまの大切な子どもを あずかって教育しなけれ
ばならないという立場の者が、自分の娘の教育さえ
満足に できなかったのはなぜか。  


19年間の娘に対する教育のどこが間違っていた
のか。   


平和で楽しかったはずの家庭に 突然おそった
悲しみ、苦しみが  厳しく小林さんを反省させ
ました。


「私は家庭における子どもの育て方に大変な間違
いを犯しておりました」 と小林さんはいいます。  


自身が勝気で負けず嫌いだったから、娘に対して
も、小さい時から 「えらくなれ」 といって育ててきた。  


大きくなると、さらにその上に 「人よりえらくなれ」  
といった。  


「娘は小学校、中学校、高等学校までは、自分
の思い通りに  伸びていったが、東京の大学に  
行ってからは、そうはいきませんでした。  


あらゆる努力をしても、自分よりすぐれているもの
が 幾多あると知ったとき、もはやわが人生はこれ
までと、生きる望みを失い、新宿発小田原行の
急行電車に投身自殺をしてしまったのです」  


遺された手紙には 「両親の期待にそうことが でき
なくなりました。  


人生を逃避することは卑怯ですが、いまの私には
これよりほかに 道はありません」 と書かれ、さらに、


「お母さん、ほんとうに お世話さまでした。  


いま私はお母さんに一目会いたい。お母さんの
胸に飛びつきたい。お母さん、さようなら」と書いて
ありました。


「それを読んだ妻は気も狂わんばかりに 子どもの
名前を呼び続け、たとえ一時間でもよい、この手で
看病してやりたかった…と泣きわめくのでした」



※…・小林さんはいいます。    


考えてみれば、子どもは順調に成長してゆけば、
誰でも 「えらくなりたい」 と思うもの。  


這えば立ちたくなり、立てば 歩きたくなり、歩けば
飛びたくなる。これが子どもの自然の姿です。  


子どもは無限の可能性を持って 伸びよう伸びよう
としています。


「それなのに自分は愚かにも 娘に、『人よりえらくなれ』  
といい続けてきた。  


“自分の最善をつくしなさい” だけで、娘は十分伸
びることが できたはずです。  


私は娘の死によって、家庭教育の 重要性を痛感
いたしました」   


以後の人生を小林さんは家庭教育の 探求と普及
に捧げる人生を生きられ、平成元年に亡くなられ
ました。  


※…自分の最善をつくしなさい。  


小林さんが一人娘の自殺という  悲しみのどん底
でみつけた真実の 言葉。その言葉こそ、人を育てる  
要諦の言葉です。  


その言葉をいま、自らの人生を 懸命に生きている
すべての人に  贈りたいと思います。    


※…坂村真民さんの詩があります。


「小さい花でいいのだ  人にほめられるような大き
な美しい花ではなく  だれからも足をとめて 見られ
なくてもいい 本当の自分自身の花を咲かせたら
いいのだ  


それを神さま仏さまに 見てもらえればいいのだ」
……








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