貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・THEライフ

















※…我が子の思いの強さが起こした  奇跡


3歳の時に5年後の生存率ゼロ... パーセント
という悪性小児がんに 犯された堀内詩織さん
には、1つの夢がありました。  


それは「よさこい」を踊ること。
「死んでもいいから、踊りたい」。  …


※…
詩織が小児がんと分かったのは、いまから7年前
の3歳の時です。  


幼稚園の健康診断で検尿をしたら 「タンパクが
下りている」と言われ、近くの病院で再検査を受
けたのが  始まりでした。    


再検査の結果、告げられたのは 「腫瘍」と
いうことでした。


悪性か良性かはまだ分からないが、とにかく
右の腎臓が動いていないから、早急に入院して
手術をしましょうと言われたのです。    


入院して3日目、その日は詩織が楽しみにし
ていた幼稚園の 夕涼み会でした。なぜなら、
お遊戯があるからです。


「おそらくこれから長期入院になりますから、
行ってきたら どうですか」と、先生に勧められ、  
参加して踊ったのが、詩織にとっての最初の
「よさこい」でした。    


高知では「よさこい」が1番大きな お祭りです。
子供たちは皆、物心つかぬうちから大人たちに  
抱っこされて見ているので、 「よさこい」を踊る
ことは 高知っ子の夢でもあります。    


詩織もそうでした。まだ3つでしたが 「よさこい
を踊りたい、踊りたい」 といつも言っていたのです。    


夕涼み会でよさこいを踊る 詩織の姿は、とても
楽しそうでした。 ・  ・  ・  


※…詩織の入院は2年余り続きました。  


わずか3歳の子供にとって つらい生活だったの
ではないかと 思います。   


詩織は、自分が悪性のがんであり、しかも生存率
が低いということを 知っています。  


それは告知をしたというよりも、私自身がとにかく
病気に関する 情報を得たいと様々な学会などに  
顔を出していたことから、  


いつの頃からか自然と気づいていた ようでした。
もちろん、本人もすべてを  受け入れているわけ
ではなく、体調に異変があれば 「自分も死ぬん
じゃないか」と 不安を顕わにすることはあります。  


しかし 「あなたは大丈夫。 何があっても私が守る
から」 と抱きしめながら、今日まで歩んできました。


※…
そんな詩織が地元高知でも有名な よさこいチーム
である「ほにや」に 入ったのは、7歳の時です。    


激しい運動は禁止、体育の授業も 見学と先生に
言い渡されていたの ですが、入院している時から
「よさこいを踊りたい、踊りたい」と 言っていたのです。    


もし真夏のよさこい祭りで 踊ったりしたら、炎天下
の中、かなり体力を消耗することに なりかねません。


「そんなことしたら、あんた死ぬかもしれんで」    


思わず口をついて出た言葉でした。しかし詩織
はまっすぐ私を 見返してこう言ったのです。


「死んでも構ん踊りたい」    


一瞬、言葉を失いました。わずか7歳の娘が死ん
でも いいから踊りたいと言う、その意志の強さに
驚いたのです。    


そして、あの日心に決めたことを思い出しました。
「そうだ、詩織の望むすべてのことを させてあげ
ると決めたんだ」。  


私は「ほにや」さんに入会を頼みに行きました。


県内屈指の人気チームですから、受かるとは
思っていなかったので、 病気のことは伏せて
申し込みました。  


しかし、合格したからには 黙っているわけには
いきません。  


社長さんに「踊っている途中で 道端で倒れても
いいから、やらせてあげてください」と お願いしました。    


そうして7歳で迎えたよさこい祭り、詩織は「ほにや」
の踊り子として よさこい祭りに参加しました。    


一番のメインストリートである 追手筋に入ってきた
詩織の姿を 見た時は号泣しました。  


それまではいつも、どこでも 「いつ死ぬか、
いつ再発するか」と  病気のことばかり考え
てきました。    


しかし、いま詩織がこの大歓声の中で 楽しそうに
笑って踊っている。  


それは詩織の命が精一杯の輝きを 放っている
ように見えました。


「ああ、これが生きているという  実感なんだ」
と感じました。 ・  ・  


※…
今年、4回目の「よさこい祭り」 を踊っている詩織
を見て、ああ、 成長したなとしみじみ思いました。  


実は、詩織の発病と同じ頃、 実母が冠動脈の
手術で 入院していたのですが、今年またステント
を入れるために  再び入院することになりました。    


ある時、詩織が車椅子を押して 母を移動させて
いた時、母のお手洗いが間に合わない時が  
あったそうです。  


詩織は黙って汚した場所を きれいに拭いて、
母をおトイレに  連れて行き、下着を替えて、  
病棟に戻ってきたと言います。  


驚いた私が 「看護師さんを呼びに行ったら よかっ
たじゃない」  と言うと、 「私がいない間におばあ
ちゃんを 一人にして何かあったら困るじゃん」 と
言いました。


「いつの間にこんなに成長したの?」 と胸が熱
くなりました。    


もしも普通の子供だったら、 「汚い」といって、
同じような  行動はしないかもしれません。    


おそらくずっと病院にいた詩織には、 自分も
周りの人たちからたくさん お世話をしてもらって
生きてきた という思いがあるのだろうと思います。    


同時に私も、詩織がこういう 病気でなかったら、
他愛ない 問題にぶつかって悩んでは、くだらない
話をしながら  生活してきたかもしれません。  


また、 「人は必ず死ぬ」 ということを意識せず、
何も考えずに生きてきたのでは  ないかと思うと、
詩織の病気から 人生で大切なことをたくさん  
教わったと思っています。    


もちろん、いまも健康な体を 授けてあげられ
なかったことを 申し訳なく思うしできることなら  
代わってあげたい。  


しかし、代わりのいない自分の 人生を精一杯
生きている娘の姿から、 「生き抜く力」と「使命」
というものを  感じることは少なくありません。


「もしかしたら、この子だから この病気になった
のかもしれない」  と、いまは思うのです。  


※…
発病から7年、5年後の 生存率ゼロ㌫という
宣告を この小さな体で撥ね返しました。  


しかし、いまもがんは  完治したわけではないし、  
貧血で朝起きられないこともある。  


不整脈も出始めて、いつどうなるか 分かりません。
それでも「よさこい」となると、「私、大丈夫。踊る!
と言って  元気に踊り出します。


「死んでも構ん。踊りたい」    


あの言葉を思い出すたび、人間の心の強さ、
決意のすごさを  感じずにはいられません。  


そしてその発心の強さが、医学の常識を覆し、
奇跡を  呼び起こしたのだと思うのです。    


詩織はいま、 「大人になって、“ほにや”の 一列
目で踊って、よさこいの インストラクターになりたい」  
という大きな夢を持っています。    


一方、私はというと、正直いまが夢の中なんじゃ
ないかと  思う時があります。  


私たちには、詩織が小学校に 上がることすら
夢のようでした。  


それが 「せめて発病から5年を超えたい」
「せめて10歳まで生きてくれたら」……。  


そんな私たちの夢を詩織は ずっと叶え続けて
くれています。    


私たちにとって、生きるとは  決して普通の
出来事ではありません。  


朝起きることも、ごはんを食べて 歯を磨くことも、
「有難い」世界です。


「生きている」という有難い、夢のような日々を
積み重ねて、これからの詩織の成長を見守っ
ていきたいと思っています。…













※…
サラリーマンをしていた頃の話です。 仲良しの
おばちゃんがいました。


歳は還暦を過ぎたくらい。私の胸ほどしかない
小柄な人でした。


私は、8階建てのビルの5階のオフィスに勤めて
いました。毎日、そのビルの5階のトイレに行きます。


すると、週に1、2度の割合で、そのおばちゃんと
トイレで会うことがありました。


そう、その相手とは清掃会社から派遣された
掃除のおばちゃんでした。


ある日、仕事が忙しくて、ずっと我慢していました。
「もうダメだ!」 と、走ってトイレに駆け込みました。


ところが、そういう時に限って、入口に「清掃中」
の看板が立て掛けてあるではないですか。


仕方がない。下の階のトイレまで行くしかない。
でも、ひょっとして・・・と思い、トイレの中に向か
って、 「いいですかぁ~」と声をかけました。


すると、 「どうぞ~」という返事が聴こえました。
それが、私とおばちゃんとの最初の出逢いでした。


その後、 「おはようございます」 「今日はいい
天気ですね」 などと、と挨拶をするようになり
ました。


やがて、 「もういやになりますよ。人のミスを押し
付けられて」 などと、仕事の愚痴まで聞いてもら
うようになりました。


それだけではなく、昼休みには一緒に喫茶店
でお茶をしたこともありました。


ある日、おばちゃんに、こんな話を聞きました。


おばちゃんは自宅の台所やトイレで、手作りの
化繊の毛糸のタワシを使っていました。


あまりにもよく汚れが落ちるので、勤め先の
上司に提案をしたそうです。 「これ、派遣先
のビルでも使っていいですか?」 と。


すると、一言。 「よけいなことは考えんでもいい」
おばちゃんは、ちょっと気落ちしましたが、今まで
通りに与えられた道具で掃除をしたそうです。


しばらくして、清掃会社を変わることになりました。


新しい会社の上司にも、再び恐る恐る同じ提案
をしました。 「これを使うとキレイになるんですが・・・」


すると、開口一番、 「やってみなさい」 と言って
くれたそうです。


すると、効果てきめん。落ちにくかった水あかが、
スーッと落ちたのです。


やがて、その手作りの化繊のタワシは、同僚たち
の間にも広がりました。 それだけではありません。


おばちゃんが勤める清掃会社全体でも採用され
るまでなったというのです。


おばちゃんは、一事が万事。掃除道具や掃除の
テクニックについて実に研究熱心。仕事に対する
熱心な姿勢には頭が下がるばかりでした。


おばちゃんとの出逢いは、サラリーマン管理職
の私にとって、ものすごく「学び」になりました。


そうです。部下の意見には、素直に耳を傾ける
ということです。  


あれから、20年近くが経ちました。私はその後、
会社を辞め、作家になりました。


しばらくの間、年賀状のやりとりをしていましたが、
ある年「転居先不明」で返送され音信不通になっ
てしまいました。


おばちゃん、元気かなぁ。


ビルの中のトイレに入ると、ときおり、おばちゃん
の顔を思い出します。 ・…。








×

非ログインユーザーとして返信する