貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・番外編


















ひきこもりの人の自立支援をうたった業者による
被害が後を絶たない。自宅から無理やり連れ出し、
高額な費用を請求するケースも。…
(敬称略、文中の人物、施設は仮名)



中部地方の自立支援施設「しあわせの里」に強制
的に入れられてから1年半がたち、佐藤達弘(25)
は昨年4月、近くの部品工場にアルバイトに行くこ
とを許可された。


就労支援の一環という位置付けだが、実際は施設
での単調な生活でたまったストレスを発散させるの
が狙いのようだった。  


施設のスタッフは達弘に、誓約書を出すよう命じた。  


「了解を得ないまま実家に帰省しない」  
「給与は口座振り込みで、里が管理する」  
「里において知り得た事柄は、第三者に漏らさない」  


アルバイト先から自宅に逃げ帰る人もいたが、家族
からの通報ですぐに連れ戻された。「自分には行く
当てがないという、一種のマインドコントロールでした」。


それでも達弘は虎視眈々(たんたん)と「その時」
をうかがっていた。信頼できる人物に出会ったからだ。  


※…「あまり言いたくないんですけど、驚かないで
くださいね」  


工場で働き始めてから2週間。達弘は安田良夫
(やすだ・よしお)(59)に“秘密”を打ち明けた。


アルバイトの面接を担当していた安田は、自分の
息子と同じ年頃の達弘を気にかけていた。仕事に
早く慣れてもらおうと、自宅で食事を振る舞った
こともある。  


「施設に無理やり入れられている」「自宅に戻りた
いがお金がない」。衝撃的な内容だった。


面接では、親戚のアパートに身を寄せていると言っ
ていたはずだ。だが履歴書に書かれた住所に行っ
てみると、確かにそれらしき建物があった。  


しあわせの里ではたびたび入所者の脱走騒ぎが
あり、地元で警戒されているのではないか。達弘
はそう考え、身元を伏せていたのだ。  


このまま放っておくわけにはいかない。安田は「夜中
に施設から100メートルぐらい離れたところに車を
止めておくので、監視の目を盗んで走っておいで」
と提案した。  


逃げるには軍資金が必要だ。達弘は毎日、コンビニ
のゴミ箱に捨てられたレシートをあさり、スタッフに
渡した。


必要な物を買ったと申告すれば、1日500円を
限度に小遣いをもらえる決まりになっていた。  


4カ月後。達弘は夜勤に行くふりをして、安田の
自宅に向かった。


仮眠を取り、夜明けとともに車で出発。車内では、
ずっと押し黙っていた。  


※…
しあわせの里では入所と脱走が相次いでいる。
それでも自立支援と言えるのだろうか。。…






ローカル線の無人駅から山あいの道を20分ほど
歩くと、目的地に着いた。


入り口には「警戒中。ご用の方はインターホンで
お話しください」と書かれた張り紙がある。


記者は今年7月、「しあわせの里」を見学に訪れた。


佐藤達弘(さとう・たつひろ)(25)=仮名=が強制
的に入れられ、昨年8月まで1年9カ月を過ごした
施設だ。  


建物の前では20代とみられる入所者の男性2人が
直立不動で待ち、「こんにちは!」と大声であいさつ
をしてくれた。


応対したのは50歳に近い責任者の男性だ。  


どのような自立支援をしているのか。  
「ひきこもりは甘えで、自分の失敗を人のせいにする。
ここでは集団生活で礼儀、気遣い、思いやりをたたき
込む。


訓練、修行で人生の終わりと思えるような最悪の
状況を味わえば、親や家庭のありがたみが分かる」  


費用は。  
「入学金200万円と毎月の費用が10万円。自宅に
迎えに行く場合は人件費が30万~40万円だ」  


自宅から無理やり連れ出すことはあるのか。  


「子どもが暴れても説得する。親は事前に知らせ
ない方が良い。だまし討ちだと責められても、本人
の将来のためという高い志があれば、子どもは必
ず理解してくれる」  


※… 集団生活での訓練と聞いて、真っ先に思い
浮かぶ施設がある。「戸塚ヨットスクール」。


戸塚宏(とつか・ひろし)(76)が1976年に愛知県
美浜町に開校。スパルタ式指導で不登校や非行
から立ち直らせると評判を呼び、全国の「悩める親」
が殺到した。


しかし80年代に訓練生の行方不明や、スタッフに
よる暴行事件が発生。戸塚は傷害致死罪などで
懲役6年の実刑判決を受けた。  


戸塚ヨットと同時期に自宅を開放し、親子支援を
始めたNPO法人「青少年自立援助センター」)
理事長の工藤定次(くどう・さだつぐ)(66)は、
支援現場の一部で今も脈々と続く暴力的な手法
に否定的だ。  


「親の世代は仕事一筋で、多様な生き方や再チャ
レンジをした経験が少なく、子どもに選択肢を示せ
ない。


『鍛える』というやり方は即効性があるように見え
るが、親子関係が壊れれば、自立にとっては遠
回りになる」   ×  ×  ×    


※…
次回・人里離れた施設での集団生活から、近年
は支援の実態がなく、「金もうけ」を狙った業者が
増えている。


元職員が「ひきこもりビジネス」の舞台裏を証言した。










第一章 そして母になる
1.母となり、子の愛を知る
被虐待児と母親の悲しみを知る


小児科の看護師になる! と決め、卒業実習で
小児看護を選択し、再び小児科ロング実習へ。


そこで出会ったのが、救急医療用ヘリコプターで
意識不明の重体で救急搬送されてきた、八歳の
H君だった。


H君は腎不全の状態、そして、被虐待児。虐待者
は実の母親だった。


点滴を引き抜かないように手足を抑制帯でベッド
に括りつけられたH君のやせ細ったあざだらけの
体が痛々しかった。


この時、私は初めて児童虐待という現実を目の
当たりにした。


学生の仕事は、またしても子どもと遊ぶことだった
が、三歳程度の知能という状況のH君、白衣を見
るなり敵意むき出しの子どもと、どうやって遊んだ
ら良いのか?


指導看護師に、H君と仲良くなるまで部屋を出る
なと言われ、看護学生とH君は病室に閉じ込め
られた。


あ~、どうしよう、全然歓迎ムードじゃないよ。
それより、どうやって仲良くなったらいい? 


絵本も手遊びも振り向かない。何をしても無視
される。ダンマリを決めたらしく何も言わない。


こうなったら持久戦。どっちが先に静寂を破るか。


H君の横で私も何もせず黙って座っていた。 でも、
さすがに子どもの方が我慢の限界は短かった。


H君がティッシュペーパーを引っ張りだして遊び
始めた。よっし、これだ! と、私も一緒にティッシュ
ペーパーむしりを始めた。


H君は、「なんだコイツ?」みたいな顔をして私を
見たが、私は「あれ、看護師さんのほうが早いぞっ!」
と、ティッシュむしりを挑発した。


すると、乗ってきた! H君が負けじと、ティッシュ
むしりを始めた。 一箱、あっという間になくなって、
今度はお互いに一箱ずつむしりあい競争。


私の方が先になくなった。 「ははは、私の勝ちだ!」
というと、大人気ないぞっ! と言わんばかりに私を
見たH君は、むしったティッシュをさらにちぎって、
今度はちぎりあい競争が始まった。


ベッドの上に雪のように積もったティッシュペーパー
の山を、H君の上に雪のように降らせると、H君が
初めて笑った。


H君は豪雪地帯で育った子だ。雪遊びはきっと
好きだったのだろう。可愛いその笑顔を見たくて、
何回もティッシュふらしをして、二人して遊んでいる
ところに、看護師長さんが来て思い切り怒られた。


う~、仲良くなって一緒に遊ぶという指令は果たした
のに、と思いながらも、怒られている私を見てH君が
くすくす笑っていた。


この人は白衣を着ているけれど看護師さんじゃ
ないらしいと受け入れてくれた。そうしてすっかり
仲良くなって私のケアも受け入れてくれた。


そんな私たちの様子を不思議そうに見ていたのは、
H君の母親だった。


母親はH君を拒絶し、ケアに消極的だったが、
H君が私に打ち解けている様子をみて、自分も
何かしたいと言うようになった。


そこで、身体的なケアに母親が一緒に関われる
看護実践を展開することになった。


H君の母親と一緒にH君の体を拭きながら、私は、
「やっぱりママが拭いてくれると気持ちいいね」、
と声をかけると、H君は「うん!」と嬉しそうに言った。


その時の母親の嬉しそうな顔は忘れられない。


この母子に一体何があったのか、どうしてこんな
ことになったのか。


思い切って、母親に単刀直入に尋ねてみた。
「お母さん、いつからH君を叩くようになったの?」。


母親は、自分のしていたことが虐待とは思ってい
なかったし、子どもを叩くのはしつけだと思って
たから、「生後一か月から、言うことを聞かないと
手が出るようになった」と、すんなり答えてくれた。


「どんなことがあって?」と聞いた。


そして、始まりは母乳育児のつまづききによるもの
だったということ。


H君は待ち望んでいた子どもだった。出産後は、
家族の援助もなく、毎日、無我夢中で初めての
育児に孤軍奮闘していた。


おっぱいさえあげていれば大丈夫と思っていた。
それが、一か月児健診で、児は痩せすぎ、「るい
そう」を診断され、即入院となった。


母乳がほとんど出ていなかったのだ。


母親は、医師や助産師から、「こんなに赤ちゃんが
痩せているのに気づかなかったのか」と言われ、
自分はダメ母の烙印を押されたと思った、と言った。


周囲が皆、そう思っているように思えて、つらかった
胸の内を話してくれた。


「それ、お母さんのせいじゃないですよ! 


つらかったでしょうに」 私が言うと、母親は初めて
そのことで泣いた。その後、H君のケアに積極的に
なり、身体的ケアを通して母子関係は改善されて
いった。


その時、私は本気で思った。助産師は何をしてい
たのだ。というか、虐待のきっかけを作ったのは、
むしろ医療者の言葉とケアの不足ではないか。


これは、きっと助産師教育が良くないのだと思った。
ならば、児童虐待を防止するため、助産師教育を
変えなければならない、


単純にそう熱く思って助産師を目指した。


教育の中で、児童虐待防止を助産師こそ担って
いると伝えなければならない、


虐待されても親を慕い続け、親を愛する被虐待児、
この悲しい関係を作り出すことだけはならず、少し
の援助があればこんなことにならなかったのでは
ないかと言う思いが、


私を助産師教育へと向かわせた。






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