貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・特別編

















※ お姫様抱っこ


保育園には若い男性の保育士がいて、子供たち
はこの先生が大好き。人気者。園庭で子供たちを
お姫様抱っこしてクルクル回っていた。


「先生、私もやってよ」。もちろん冗談でね。


若いけど、おばさんの冗談にもノリが良く面白い
先生で「尚子先生が死ぬ三日前くらいになれば
できるかも」なんて返してきた。


まあまあ、かなりの重量ですから、気持ち、よく
分かりますよ。いつものように、笑って楽しんだ。


これを笑い話としてパパに話した。 「ちょっと、
待ってろ」ビールを飲む手を止めて立ち上がる。


「ちょっと、来てみ。俺が抱っこしてやるから」


「えっ~いいですよー」 パパは私よりかなり軽い。
無理でしょう。どうしてもって言うから、しょうがな
いなぁと思って抱っこしてもらう。予想通り持ち
上がらない。


「じゃ、おんぶしてやる」と、しゃがみ込んで、背中
を向けた。 「もうヤダな」。 取りあえず乗ってみるか。
立ち上がれない。


「だからいいって言ったでしょう」。 それでも気が
済まないらしくギュッと抱きしめて持ち上げる。


気持ーち、上がったかなで取りあえず終了、ちょっ
とした笑い話がとんでもないことになったと思った。


普通ならこれで終わりなんだけど、パパはちょっ
と違う。 次の日「昨日は飲んでたからできなかった、


今日はいけると思うからリベンジさせてくれ」。


もーもー勘弁してくれ! 「本当に申し訳ございま
せんでした、馬鹿げたことを言ってしまいました、
もう本当にやめてもらえますか、気持ちだけで十
分なんで」と言う羽目になった。 …


何度思い出しても笑っちゃう。これが私のパパです。
まだ、二人の子供が小学校の低学年の頃の話です。


どうして今、私の傍にいないのだろうか。どこで私を
見ていますか。あの日から眠ったままの時間を生き
ている。


動き出さない私の時間をどうか動かしてください。



※…セミナー


ある日、仲の良い友達にすすめられ、「癒しの
セミナー」というところに参加する。このセミナー
で自分が変われたと……私にも体験して欲しい
ということで私は別の友達を誘って参加した。


クリスタルボールとかよく分からない経験をした。


一緒に行った友達は帰ってから体調が悪くなった
と言っていた。 私は何だか分からなかった、という
のが本当のところで、これで何が変わったというの
だろうか。


分からないまま次回のお誘いがあり、友達が変わ
れたというのは何かが知りたくて、もう一度参加した。


これが運の尽き、ほかの参加者が自分の苦しみ
恨み妬みなどを吐き出す様子に、やや引き気味
で 「何を言えばいいのか分かりません」と話すと、
幸せなことを話してもいいですよと言われて


「私は、結構幸せで」と幸せ話を披露した。


それが引き金になり「幸せな人は、そんなに太って
いません。洋服だってもっときれいな色を着ます」
等々。


全否定されたようで最後までいられず帰ってきた。
そこからがどん底。 「本当に幸せな人じゃない」
「こういう人は、癌になって死にます」など言われた
ことが頭から離れず不安定になって苦しくてパパ
に泣き付く。


「どうして、そんなところに行ったかな? 


セミナーなんて怪しいものがほとんどなんだから」
と泣いてる私を一生懸命に慰めて頭や肩をさす
ってくれた。


「俺が尚子ちゃんで良いって言ってるんだから、
それでいいだろう心配するな」「今度からは、
変なセミナー行くなよ」。


何だかホッとして救われた


私が泣くと弱いんだよねー。一緒に泣くんじゃない
かと思うくらいオタオタして、でも必死で何とかしよ
うとする。パパがいつも私を助ける。


こんな時は優しい頼りになる人でした。 何故か
宗教に勧誘されたり妙な人に出会ったり珍しい
体験をすることが間々ある。


パパは「ボーっとしてるんじゃねえか? だから、
変なのが寄ってくるんだぞ」なんて言ってました。


呆れたり心配したりしていたと思います。














情緒溢れる美しい日本語は数知れない。


そんな詩的な言葉ばかりでなく、普段使っている話
し言葉にも美しい日本語は溢れている。  


以前、「あなたが美しいと思う日本語は何ですか」
というアンケート調査を行ったところ、1位に輝い
たのは「ありがとう」だったそうだ。  


その英語訳は「Thank you(サンキュー)」である。


この二つの言葉、使う場面は同じでも由来は
全然違う。  


英語では「あなたに感謝します」と、そのままだが、
「ありがとう」の由来は「有り難し」、つまり「有ること
が難しい」である。  


仏教に「盲亀浮木(もうきふぼく)」という逸話がある。


目の見えない亀が百年に一度海の水面に顔を出す。
その広大な海のどこかに、亀の頭が入るくらいの穴
が開いた流木が浮いている。


亀がその穴に顔を入れる確率は限りなくゼロに近い
が、ゼロではない。  


我々が今生きていることは「その有り得ないことが
起こっている状態と同じだ」というたとえ話である。


まさにこれが「有ることが難しいこと」、すなわち、
有り難きこと、奇跡なのである。


また、「ありがとう」は魔法の言霊ともいわれている。


「ありがとう」をいつも口にしていると運気が自分に
向いてくるそうだ。そんなことが書かれている本も
数知れない。  


我々の周りは「有り難きこと」が溢れている。
朝目を覚ます。住む家があり、着る服がある。
家族がみんな元気で、戦争のない国に住んでいる。


それらは全て「有り難きこと」  歳を重ね、それが
段々と腑に落ちてきた。もし私に若い頃からそれ
を感じ取る力があったら、もっと幸福度の高い
青年期を送れただろう。 …


幼い時にそれを心に落とし込んだ少年がいる。


朝日学生新聞社が小学生を対象に毎年開催し
ている「いつもありがとう作文コンクール」。


2016年に最優秀賞を受賞したのは6年生でも
5年生でもなく、1年生の松橋一太君だった。


※…
【最優秀賞全文】 てんしのいもうと
新潟県 1年 松橋一太  


ぼくには、てんしのいもうとがいます。  


よなか、ぼくは、おとうさんとびょういんのまちあい
しつにすわっていました。となりにいるおとうさんは、
すこしこわいかおをしています。


いつも人でいっぱいのびょういんは、よなかに
なるとこんなにしずかなんだなあとおもいました。  


すこしたってから、めのまえのドアがあいて、くるま
いすにのったおかあさんとかんごしさんがでてきました。  


ぼくがくるまいすをおすと、おかあさんはかなし
そうに、はをくいしばったかおをして、ぼくのてを
ぎゅっとにぎりました。  


いえにつくころ、おそらはすこしあかるくなってい
ました。 ぼくは一人っこなので、いもうとがうまれ
てくることがとてもたのしみでした。


おかあさんのおなかにいもうとがきたときいてから、
まいにち、ぬいぐるみでおむつがえのれんしゅう
をしたり、いもうとのなまえをかんがえたりしてすご
しました。  


ごはんをたべたり、おしゃべりしたりわらったり、
こうえんであそんだり、テレビをみたり、いままで
三人でしていたことを、これからは四人でするん
だなあとおもっていました。  


でも、はるやすみのおわり、トイレでぐったりしなが
らないているおかあさんをみて、これからも三人
なのかもしれないとおもいました。


さみしくて、かなしかったけど、それをいったら
おとうさんとおかあさんがこまるとおもっていえ
ませんでした。  


ぽかぽかのあたたかいひ、ぼくたちは、ぜんこうじ
さんへいきました。いもうととバイバイするためです。


はじめて四人でおでかけをしました。


ぼくは、いもうとがてんごくであそべるように、
おりがみでおもちゃをつくりました。  


「また、おかあさんのおなかにきてね。こんどは
うまれてきて、いっしょにいろんなことしようね。」
と、てがみをかきました。  


ぼくは、てをあわせながら、ぼくのあたりまえの
まいにちは、ありがとうのまいにちなんだとおもい
ました。  


おとうさんとおかあさんがいることも、わらうことも、
たべることやはなすことも、ぜんぶありがとうなん
だとおもいました。  


それをおしえてくれたのは、いもうとです。  
ぼくのいもうと、ありがとう。  
おとうさん、おかあさん、ありがとう。  
いきていること、ありがとう。  


ぼくには、てんしのいもうとがいます。  
だいじなだいじないもうとがいます。











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