貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・漢の韓信シリーズ














第三章:会稽の恥  


「三年だ。三年のうちに必ず、越に報復する」
夫差は周囲に口癖のように語った。


伍子胥はそのような夫差をよく補佐し、戦渦に
荒れた呉の国力の回復に努めた。 奮揚と紅花が
呉地に入ったのは、その頃である。


彼らは、とある有力な大夫の所領の邑に農民の
姿をして潜入した。  


その邑では、このたび領主の肩書きが変わった
という話題でもちきりであった。


農民たちは、領主の出世により自分たちの暮らし
向きがよくなることを期待して、互いに酒を酌
み交わしていた。  


その領主の肩書きは、「太宰たいさい」だという。


楚出身の奮揚と紅花にとっては聞き慣れない言葉
であったが、これは楚語の「令尹れいいん」と同
じ意であると、彼らは後になって知った。


「その太宰である御領主の名は?」奮揚は、隣に
居合わせたひとりの農民に聞いた。


するとその男は、 「伯?はくひさまだ。その名
を口にするだけでも畏れ多い」と、答えたのである。


奮揚と紅花は、思わず目を合わせた。


「揚さま、伯?といえば……」紅花は念のため
奮揚に確認を求めた。


「うむ。楚の名家に生まれた男だ。かつての楚の
軍師を祖父に持つ。


しかし、父親が殺害されたことで呉に亡命した
と聞いていたが……ここで台頭しているとはな
……驚きだ」


「つくづく、楚は罪の多い国ですね」  


紅花の返答は、自分自身にさえも嫌悪感を抱い
たような、あきれかえった口調でなされた。


しかしそれを奮揚は否定する。「楚という国は、
長い間長江以南の支配者であった。


文化の中心だったのだ。では、文化とはいったい
なんだろう。おそらくそれは、人同士の感情の
せめぎ合いによって生まれるものだ。


そしてその結果、人が他国へ流れ、文化は他国
へ波及する……太古からの文明の発達とは、そう
いったものだろう。


罪だとは言えぬ」 「でも……」 「仮に罪だと
しても、楚はもうすでにそれを敗北によって贖
あがなった。


もう罰は受けているのだ。まあ、とにかく……
その伯?に会ってみようじゃないか」  


太宰ともなれば、身分はすでにただの大夫では
ない。伯?は、いわゆる卿であった。  


呉の人々は、彼のことを「太宰?」と呼んだ。










バリアフリーコンサルタントという仕事をし
ている鈴木ひとみさんという方がいます。


現在60歳で、エッセイストとして本を何冊も
書いておられ、講演家としても年間にかなり
の数の講演を全国でしておられます。


この方の人生が『車椅子の花嫁』というドラマ
にもなりました。


鈴木さんは19歳でミスインターナショナルの
日本代表になりました。


それからモデルやテレビのアシスタントを
されたのですが、22歳の時に撮影の帰りに
高速道路で交通事故に遭い、乗っていた車が
横転して、鈴木さんは窓を突き破って外に
放り出されました。


その時に体を強く打ち、救急車で病院に運ば
れると、首の骨が折れていることがわかりま
した。


二週間後にお医者さんから言われたのが、
あなたの足はもう動きません。今の医学では
折れた首の骨の矯正はできても、その中を通
る神経をつないで治すことまではできません」
という絶望的な宣告でした。


それから車椅子の生活になりました。


それまでは堂々と外を歩いていたのですが、
それが車椅子になり、退院してから、周りの
人はどう見るだろうか。どう言われるだろうか
と気になり、なかなか外に出られなかったそ
うです。


その時のボーイフレンドが「とにかく外に出
ないといけないよ」と言って、車椅子を押し
てくれ、鈴木さんは勇気を振り絞って外に出
ました。


その時に自分に何度も”何も悪いことをして
いないんだから、堂々と外に出ればいいんだ”
と言い聞かせました。


外に出てみると、”自分が思っているほど、
周りの人は自分のことを気にしていない”
と思ったそうです。


その通りで、だんだん心が楽になり、車椅子
を押してもらって、いろいろな所に行くよう
になりました。


そうすると街は障がい者にとって不便なことが
多いということがわかってきたそうです。


一見平らに見える道路も、舗装の関係でかま
ぼこ型になっていて、慣れていないと傾斜に
流されてしまうそうです。


またお店や歩道の段差は、歩いている人には
あまり気にならなくても、車椅子利用者にと
っては大きな障害に感じたそうです。


自家用車やタクシーには乗れたのですが、
バスには乗れませんでした。


電車に乗るときは、大きな駅ではエレベーター
があるのでホームまで行けますが、大抵の駅は
階段なので、駅員さんに頼んで抱え上げてもら
わなければいけませんでした。


滅多にないのですが、駅員さんによっては嫌な
顔をする人もあったそうです。


そのような経験をしながら、”世の中のバリア
フリーを進めなければ”と思い、バリアフリー
コンサルタントになったそうです。


今ではいろいろな所に行動範囲を広げ、障がい
者に優しい世の中になるようにと日夜活動をし
ていらっしゃいます。


”何か人生に目標を”ということでスポーツを
されるようになり、いろいろなスポーツを体験
されました。


その中の一つ、射撃ではアテネのパラリンピック
に出られています。それまで射撃なんてしたこと
もないのに、練習を重ね、パラリンピックに出場
するまでになったのです。





×

非ログインユーザーとして返信する