貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編

















※…私は直島に住んでいます。


最近は有名になり、観光客が増え、芸能人が来た
りしています。  


ある日、私は下校中に外国人観光客に出会い
ました。直島のマップを片手に立ち止まりずっと
きょろきょろしています。  


「この人、道に迷っているな。」 と、私はすぐに
そう察しました。


直島は、英語教育にも力をいれています。ALT
の先生が来て小さい頃から英語と関わり、遊んで
楽しみながら文や単語を覚えてきました。


だから、 「どこに行きたいですか?」 と聞くことは
可能でした。しかし、そのときは声をかけることが
できませんでした。


どうしても、声をかける勇気が出なかったからです。
それに、会ったことのない外国人です。


ほぼ毎日会っているALTの先生とは大違いです。
だから英語を話すのが怖くて、その外国人と話す
ことができませんでした。  


(なぜ声をかけてあげなかったんだ) そう思ったとき
はもうおそく、その外国人観光客が見えなくなるくら
い距離が長くなっていました。


私はすごく申し訳なく思いました。人が困っている
のをわかっていながら、なにもせず通っていった
自分に腹が立ちました。


後から出てくるくやしい気持ちや後悔、申し訳ない
気持ちを思いながら私は、 (次は勇気を出して声
をかけてあげるんだ!


そして、今度はうれしい気持ちで観光客と別れる
んだ!) と、心の中で決めました。  


何日か経ったある日、私は帰り道にまた、道に迷っ
ている外国人観光客を見ました。


しかし、今回は前と少し違いました。私が話しかけ
ようとずっとその人を見ていると、その人のまわりに
は三人の友達らしき人がいました。


私はその三人を見たとき、(だめだ。私にはできない。
四人となんか話せない) とあきらめていました。


しかし、私は思い出しました。この前、声をかけられ
なくてくやしかったこと、後悔したこと、全部を思い
出しました。


そして、私はこのままではいけないと思い、勇気を
出して、 「あなたはどこに行きたいですか?」 と、
英語で話しかけました。


すると、その人たちは、はじめはびっくりしていまし
たが、すぐ笑顔になって、行きたい場所を教えて
くれました。  


その行き先は私の家の近くだったので、いっしょ
に話しながらその場所に連れて行ってあげました。


とても楽しかったです。そして観光客も私もうれし
い気持ちで別れました。  


小さな親切にはたくさんの勇気がいると思います。
でもその勇気を出すことが私は一番大切だと思い
ます。


なぜなら、心の中で相手に親切にしてもなにも
伝わらないから、なにも変わりません。


だからたとえ、はずかしくても勇気を出せば、なに
かがきっと変わるはずだと思っています。…















60歳まで地方公務員として働き、幹部として地域
振興策の立案にかかわり、総務も担った。


人の役に立っている実感があり、充実した日々
だった。管理職になり、約100人の部下を持っ
たこともある。  


「退職直後から毎朝散歩するようになりました。
加古川河川敷で1時間ほどぼーっと座る。


退職して2カ月で体重が5キロ落ちました。毎晩、
何度も目が覚めるんです。疲れて仕事から帰り、
朝まで熟睡できた頃が懐かしかったなぁ。


何をしても面白くなく、新しいことを始める意欲が
湧きませんでした」  


兵庫県加古川市の平山康志さん(70)=仮名=
は、うつを疑い、心療内科の受診も考えたが、診断
されて大ごとになるのは怖かった。  


定年後は68歳まで外郭団体職員として働き、
今は妻と2人でマンション暮らし。2人の子ども
は結婚し、孫も3人いる。


世間からは何の不自由もない老後生活に見える
かもしれないが、胸に大きな穴が開いた。  


「退職してから、刺激のない人生がずっと続くのか
と不安ばかり募りました。でも、年を取ったんだから
仕方がないね」  


40年間、懸命に働いた自負はある。休日の半分
は出勤し、家庭でも業務に関連する法制度など
を勉強した。


遅くまで本を読むため、寝室は夫婦別。家事や
育児にかかわらなかった。


夫婦仲は悪くなかったが、退職後は家事を巡って
けんかが増えた。  


加古川には10年前に引っ越してきた。仕事ばかり
だったので、地域に知り合いがいない。


専業主婦の妻は交友関係を広げており、「私は
いつまでも現役なの? 家事は半々で担うべき
じゃない?」と迫られた。  


「妻が支えてくれたことには感謝しています。です
が、私が頑張って働いたことも評価してほしい。
子どもたちを大学に行かせ、今も不自由なく生活
できているじゃないか。


『もう働いていないんだから』で片付けられると、
これまでの人生を全否定され、自分がなくなっ
てしまいそうに思えるんです」  


本音をぶつけられないまま、散歩をする毎日が
続いた。ほとんど人に会うこともなく、一言も声を
出さない日すらあった。  


空いた時間を生かそうと、株にも手を出した。だが
慣れないためか失敗し、多額の損失を出した。


ストレスになっただけ。本当にやりたいことではな
かった。  


退職から1年が過ぎ、居場所を求めて、県高齢者
大学「いなみ野学園」に入学した。今は週に3日、
授業や部活動に通う。


みんな同じような思いを抱えているのだろうと思う
と、少し気分が楽になった。その一方で教養を身
に付けても、自己満足にすぎないのではと思う
ことがある。  


「きざな言い回しかもしれないけど、本当は仲間
たちと汗を流して困難を乗り越え、多くの人を笑顔
にしたいんだ。


年だから仕方がない。頭では分かるが割り切れ
ない。もう一度、新しい人生を踏み出したい。
ボランティアをしてみようかな」…





祖父の代から続く兵庫県加古川市内の一軒家
に一人残された。上山和史さん(72)は6年前、
妻裕子さん=いずれも仮名=と死別。


まだ63歳の若さだった。 胃がんと診断されたのは
2012年11月。医師から「必ず治る」と言われてい
たのに、手術を終えた医師は「余命半年です」。  


怒りと悲しみが渦巻いた。和史さんは定年退職を
迎え、裕子さんと有馬温泉や香港を旅行。これか
らもっと2人で楽しもう。


苦労をかけた妻に報いよう。そんなふうに思って
いた頃だった。  


「余命を宣告されてからは、あと180日、あと179
日と数えるんです。追い詰められるような気持ちに
なって夜は目がさえて寝付けない。睡眠薬も効き
ませんでした」  


和史さんの食は細り、ズボンのベルトは二つ分小
さくなった。半年で10キロ以上落ちた。  


「息子、娘と相談し、がんを告知しませんでした。
だから見舞いに行っても不眠だとは言えない。
病室の椅子に座って、うつらうつらしてしまうと夜
また寝られなくなる」  


裕子さんは年明けに退院し、抗がん剤治療に移っ
たが、13年2月に容体が急変。初診から106日目
に亡くなった。


結婚約40年。家事、子育て、同居していた両親
の介護も任せきり。よく「あなたより長生きしてぜい
たくするから」と言って笑っていた。


先に逝くとは思ってもいなかった。  


二人の子どもは独立。妻の料理を囲み、家族6人
の笑い声が響いたわが家には、和史さんしかいない。  
「どうやって生きていったらいいのか分からない。


布団に入って『このまま永久に眠れたら楽やろうな』
って思うんです。無理に寝ようとしても余計に寝られ
ない。


昼間は何もする気が起きなくて誰とも会いたくない。
友だちは電話をかけてくれたけど、ほうっておいて
ほしかった」  


不眠に関する書籍を手に取るようになった。
半年後、1冊の本を見つけた。


国立がんセンター名誉総長の垣添忠生さんが、
肺がんの妻を亡くした体験をまとめた「妻を看取
る日」。


不眠、食欲減退に襲われ、睡眠薬に頼る。仕事
に没頭することで心を落ち着かせた医師に自らの
姿を重ねた。  


「同じような経験は自分だけじゃない。それまでは
一人だけの世界に入っていたけど、娘と息子も
急に母親を亡くして悲しんでいる。父親がふさぎ
込んだままやったらあかん」  


様子を見に来てくれた姉にも「みそ汁ぐらい自分
で作らな」と叱られた。コンビニエンスストアや宅配
サービスの弁当に頼っていた食事をあらため、姉
から料理を教わった。


煮物、焼き魚、卵焼き…。どれも妻には及ばない。  
医師の本をきっかけに「自分だけじゃない。妻の
死を受け入れないと」と自分に言い聞かせるよう
になった。


友人から旅行の誘いがあれば参加するようにして
いる。ただ、今も週1、2回は睡眠導入剤を服用する。  


「すぱっと気持ちが割り切れたわけじゃない。
『妻を先に死なせてしまった』という罪悪感は
消えません」…





下川政夫さん(87)=仮名=は14年前、脳梗塞
を発症して以来、足が自由に動かず、長く座って
いることもできない。  


娘の小西由紀子さん(59)=兵庫県加古川市=
は4年前、政夫さんと発達障害の兄(60)を呼び
寄せ、今は3人で暮らす。


由紀子さんの夫は8年前に亡くなった。  


政夫さんは腎不全や不整脈も表れ、一日の大半
をベッドの上でテレビを見て過ごす。最近は耳が
遠くなり、会話はたどたどしい。一言ずつゆっくり
と語る。  


「元々は左官職人で、姫路市に住んでいました。
発達障害の長男が働ける場所をつくるため、50
歳でラーメン店を開業。


客商売は苦手だけど、試行錯誤してこしらえた
スープが自慢でした。また自分で作って客に食
べてもらいたいよ」  


あっさりした豚骨味が評判で、昼食時間帯になる
と常連客で埋まった。職人かたぎで気が短い。
よく客と口論したが、商売は順調で支店もつくった。


だが4歳下の妻が肺がんになると、店を子どもに
任せるようになった。  


「私のことを何でも受け止めてくれる妻でした。
一生懸命働いても、大事な妻が病気になると
不幸になる。仕事をするのが、あほらしくなって
しまいました」  


妻は2年間の在宅治療を経て63歳で亡くなった。
政夫さんは支店を手放して夜だけ店に復帰し、
昼間は趣味のパチンコや、幼い孫の相手をして
過ごした。


だが2年ほどしてから、「子どもが店をのっとった」
「お金を盗んだ」と、ありもしないことを親戚に話す
ようになった。  


「妻がいない現実を受け入れられず、寂しさの
矛先を娘に向けていたのかもしれません。


家族は病気を疑っていました」 73歳の時に自宅
で倒れた。脳梗塞と診断され、近くの病院に1年
間ほど入院。


政夫さんは病院のご飯を食べたがらず、長女の
由紀子さんが毎日2回、病院まで手作りの料理を
運んだ。


さらに2日に1回は自宅に連れて帰り、風呂に入れ
た。乱暴な言動は、いつしかなくなっていた。


退院後、病気を苦に「死ぬ」と書き残して踏切の
前にたたずんだことが何度もあった。  


食事や入浴、トイレ…。政夫さんの介護を続ける
由紀子さんが打ち明けた。  


「夫が亡くなった時、冷蔵庫に残った果物を見て、
『ちゃんと皮をむいて食卓に出してあげたら良かっ
た』と後悔しました。


高齢の父は、今日は元気でも、明日はどうなるか
分かりません。毎日、一生懸命に接したいんです」  


政夫さんは今、医師に止められていたビールを、
毎日たしなむ。余生を楽しんでもらおうと、由紀子
さんが主治医に掛け合って許しを得た。


由紀子さんに連れていってもらい、年に1度だけ
車いすでパチンコをする。  


「体は不自由だけど、家族のありがたみがよく分か
りました。一緒にいられてうれしい。


今は孫の成長が生きがい。それを見届けたら、
いつ死んでもいい」…


author:(本田純一)(若林幹夫)








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