貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・特別編

















日本に蔓延る違法薬物。なかでも覚醒剤は
高額で取引され、その利益の一部はヤクザ
のもとへと流れ込んでいる。


日本で覚醒剤が流通し始めたのはいつから
なのか。どのような経緯で覚醒剤取引が
始まっていったのか……。


日本に麻薬を広めた男”と語る男、和久井氏
に話を聞いた。  


ワタナベゲンの正体  


1935年。韓国で生まれた渡辺は、終戦で
引き揚げた後、慶応高校卒業、慶応大学
法学部へと進学した。


クラスメイトだった昭和の大俳優・石原裕次郎
が中退すると、後を追うように、彼も中退。


日本経済新聞社記者になり、図らずして
フィリピン政府高官・バルバ(マルコス大統領
の義理の弟)と知り合った。


大新聞の肩書きにフィリピン政府のパイプ。
傍からみたらエリート街道そのものだったろう。  


だが精鋭もギャンブルにのめり込むまでの話
だった。パチンコや麻雀に飽き足らず、ヤクザ
が仕切る違法賭博場にまで手を出した。


博打三昧の生活を求めて大阪・中央区の大手
先物取引会社「西田三郎商店(※現在は閉業)」
に転職までしたのである。  


和久井が渡辺と知り合ったのは1967年ごろ、
和久井が逮捕されてから直ぐのことである。


和久井が兄弟分の泉三郎と仕切る大阪・高津
の本引き賭博場に当時、西田三郎商店の
課長をしていた渡辺が客として遊びに来た
のがきっかけだった。  


渡辺と顔見知りになった賭場の客たちが渡辺
の誘いに乗って高レート麻雀で身包みを剥が
されたのは、それから直ぐのことだ。


「ワタナベゲンが後に国際ゴルフの社長になる
人間と組んでイカサマを仕掛けた。それで5人
の被害者が出たんだ」  


方々でカモを見つけてはイカサマを繰り返して
いた2人。被害総額は、賭場の客だけでも
当時のカネで2000万円にのぼっていた。


激しいキリトリに耐えかねた5人が和久井を頼り、
コトは発覚したのである。  


そこで和久井はヤクザ組織の客分としての
本領を発揮する。


賭場の客には返金させ、残りの利益を折半
することで話をつけた和久井。


こうして詐欺師とケツモチとでも言うべき関係
が始まった。  


彼は和久井の賭場で、同じく賭場の常連だった
和久井の先輩である右翼団体・日本皇民党
の稲本虎翁とも知り合ったという。


そもそも稲本虎翁は、皇民党を作る前は
白神組の幹部で、和久井の先輩にあたり、
和久井が紹介したそうだ。  


白神組には“影下のマー坊”という稲本虎翁
の兄弟分がいた。影下は、若い頃から麻薬
(ヘロイン)で有名な五島組の連中と付き合い、
「香港・台湾・タイ・フィリピンにシノギの件で
行っていた」という。  


ヤクザは当時、和久井いわく麻薬・保険金殺人
・臓器売買を当たり前のようにシノギにしていた。


殺人事件で7年間服役した影下は出所後、
白神組に戻らずヤクザをやめて密輸・密売
などの非合法商売に走った。


ゆえにフィリピンにも頻繁に飛んでいたそうだ。
「フィリピンへは最初、五島組のルートで行った
と聞いている。


そして香港、台湾、タイなどと同様にフィリピン
にも拠点を作った」  


ともかく、3人は和久井の紹介で自然に出会い、
影下と渡辺は2人で頻繁にフィリピンへ出向く
ようになる。


「コレを売って返済しろ」
借金返済の代わりに5キロの覚醒剤を…  


渡辺はカネになるなら何でもする男だった。
また先物取引の営業課長であることから、
多くの上客を抱えていたばかりか、口八丁
手八丁で詐欺まがいの販売をする天才でも
あった。


「上客を温泉に連れて行って、シャブを与えて
女を抱かせ手籠めにしちゃう」  


ヤクザから仕入れたシャブで客を溶かした
と和久井は言った。


シャブはあくまで先物商品を売る道具に
過ぎなかった、まだこのときは…。  


覚醒剤の密輸に乗り出したのは、和久井に
追い込みをかけられたからである。


「ワタナベゲンが仕手(先物取引)で失敗して
俺の知り合いの男を大損させたんだ」  


渡辺の熱意とシャブにトロけて大金を投じた
知り合いの男。〈万が一の場合は補填をします〉
と署名入りで書かれた保証書が安心材料だった。


が、あろうことか渡辺はその保証書を反故にした。  
そこで仲裁に入るのがトラブルコンサルタントの
和久井だ。


知らぬ存ぜぬを貫く渡辺に苛立ちながらも、
ある妙案を思いつく。


「また俺の賭場に誘ってポンコツをかけた」  
ポンコツ。イカサマを現すアングラ・カジノ用語
である。


ギャンブル中毒の渡辺は見事に借金だらけに
なった。  


追い込まれた渡辺に、和久井は先物大手の
元課長の手腕を見込んで言った。


「コレを売って返済しろ」  


逮捕時に押収を免れた、大阪の社長の工場
に残っていた5キロの覚醒剤だ。


しかしキリトリ依頼から数ヵ月後、渡辺は西田
三郎商店を辞め國粹会の山田政雄と組み
東京・兜町で小さな証券会社を始めるなど
裏稼業から足を洗おうとしている時期だった。


「和久井さん、いまはマトモな商売をしているん
でもう、勘弁してください」


「そうだよな。なら借金はどうするんだ? 
最後にコレだけは請負え」  


和久井の事務所に東声会の幹部が押しかけて
きたのは、その数日後のことだ。


山田政雄に助けを求めたに違いない。


「話は聞いてるよ。本人は嫌がってるんだから
手を引いてくれないか」


「おたくが代わりにカネを返してくれるんなら
手を引きますよ」  


借金の返済方法としてシャブの密売を背負わ
されているとは説明していなかったのだろう。


山田政雄は不義理を良しとはしなかった。


「なぜ全ての事情を話さないんだ? 
ウチは覚醒剤は扱わない。
もうお前に会社は任せられない。
身を綺麗にしてから出直して来い」


カタギの道は閉ざされた。もちろん山田政雄
の後ろ盾もない。


八方塞がりになったやり場のない気持ちを
渡辺はぼやく。


「どうしたもんですかね、和久井さん……」
「世の中には筋目ってのがあるんだ」  


そのとき和久井は、渡辺が影下のマー坊と
頻繁にフィリピンに行っていたことを思い出した。


「お前、フィリピンに人脈があるのか?」
「友達がイメルダと懇意にしていますよ」  


マルコス大統領の義弟・バルバのラインから
ファーストレディにも顔が利くというのである。


「ならイメルダを口説いてみろ」  


かくして傀儡になった渡辺は1971年、サンプル
用に100グラムの覚醒剤を持たされフィリピンに
飛んだ。


イメルダ夫人と手を組み、国家プロジェクト
で覚醒剤を造るようになったのである。


独占告白記事によれは、1967年に渡比し、
鰹節の製造販売業を経て1971年、フィリピン
で厳戒令が出されたのを機に捜査官に。


続く1974年に密輸取締官。さらに1976年には
麻薬取締官になったと記されている。  


嘱託とはいえ、渡辺が重要なポストに就けた
のには理由があった。


日経新聞記者時代に対日賠償使節団と
してフィリピンから来た政府代表の随員
だった


マルコス大統領の義弟・バルバの知遇
を得る。


この縁で1967年から再三にわたりフィリピン
に渡航して現地人と結婚し一児を授かり、
洗礼してジミーというクリスチャン・ネーム
が与えられた。  


鰹節工場が潰れてからは政界の黒幕
・バルバを身元保証人として政府機関で
働くようになった。


“友達”のツテで日本人でありながら重要な
ポストに就けたと推測される。


「俺とイメルダのことはだけは謳わなかった。
言ったらどうなるか分かっていただろうからな」  


報復を恐れた渡辺の偽言だと和久井は言う。  
ここは和久井が正しいとしよう。自分の過去を
都合よく改ざんすることはよくあることなの
かもしれない。 …












昨今、笑いは体に良いということで、医療現場
でも笑いを活用しているお医者さんが少なく
ないと聞きます。


笑うと癌や糖尿病・高血圧などの生活習慣病
の予防や改善につながり、笑うことで何よりも
心が強くなって、前向きに生きる活力が出て
くるのだそうです。


61歳で真打に昇進した遅咲きの落語家・立川
らく朝さんは内科のお医者さんでもあります。


らく朝さんが落語家になって間もないころ、
慶應義塾大学病院の内科に勤務していました。


ある日、看護師長さんから「ぜひ病院の
研究会で落語をやって欲しい」と頼まれました。


どんな研究会か聞くと、「癌性疼痛研究会」と
のことでした。


癌は進行すると骨転移などで激しい痛みを
伴うことがあります。その痛みをどう緩和ケア
するかを勉強する会でした。


「でも、どうしてそこで落語をやるのか」と
尋ねると、看護師長さんは言いました。


「現場に行くと私達は笑顔がなくなっちゃうの。
でも、患者さんのためにも私達に笑顔がなく
なったら駄目なの。だから、らく朝さんに時々
笑わせてほしいの。お願い」…


この趣旨に大いに賛同したらく朝さんは、
快く引き受けました。


いよいよ初日、指定された教室のドアを開ける
と中は真っ暗。スライドを映しながら症例報告
の真っ最中です。


演題を見てびっくり。「最期まで救済し得なかった
癌性疼痛の一例」というこれまた暗い演題で、
教室全体もドヨ~ンとした雰囲気です。


らく朝さんは思いました。
”こんなところで落語をするのか…”


症例報告が終わると教室が明るくなりました。
しかし、雰囲気はドヨ~ンとしたままです。


そこで看護師長さんが、幽霊が出そうな声で
言いました。「では、らく朝さん、どうぞ落語を
お始めください」


らく朝さんはその雰囲気にめげず、病院の
スタッフや患者さんのために必死で落語を
やったところ、大ウケし、大好評だったそうです。


らく朝さんの言葉です。


「患者さんの闘病のストレスを少しでも和らげ、
前向きに生きる活力を生み出すのに笑い程
効果のあるものはありません。


笑っている時は誰でも幸せな顔をします。


笑うと幸せになるんです。笑っている時は
誰でも中毒患者になるんです。


物騒な物言いですが、あながち外れても
いません。笑うことによって脳の中にβ
エンドルフィンという物質が分泌されるんです。


これが麻薬と同じ物質なんです。


βエンドルフィンは脳内麻薬ともいわれ、実際
に本物の麻薬であるモルヒネの何倍もの鎮痛
効果があるのです。


またβエンドルフィンは強烈な幸福感を
もたらしてくれます。


こんなすごい物質が笑うと脳内にどんどん
出るのです。みんな幸せな顔になるのは
当然のことなんです」 …











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