貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・一考編














※ 病院で刻む夫婦の時間



前回訪問してからわずか1カ月半の間に、
小林勝也さん(87)=仮名=の体は急激
に弱っていった。


6月末の蒸し暑い日。神戸市内の勝也さん
の自宅を訪れた私たちは、和室で妻の
美恵子さん(82)=仮名=と向き合っている。


勝也さんが寝ていた介護ベッドはもうない。


勝也さんが近くの病院に入院したのは、
10日ほど前だという。立ち上がれず、
ベッドから車いすに移ることもできなくなった。


「少し前から『足が痛い』『腰が痛い』って
言っててね」と、美恵子さんが詳しく
話してくれる。


主治医には民間病院のホスピスを勧め
られたが、歩いて行ける自宅近くの病院
に入院が決まる。


美恵子さんは医師に「なるべく自然に、
管を入れずにしてあげてほしい」と伝えた。


「私ね、家でみるつもりやったんよ。でも
眠れなくて薬もらったり、点滴をしてもらったり。


体重も減って、あんまりしんどくて…」と美恵子
さんがぽつりと話す。


「お父さんも私のこと考えるとね。『何が何でも、
家で最期を』というのはなかったと思うの」


私たちは美恵子さんと一緒に、病院へ
向かった。勝也さんは相部屋にいた。
上を向いて、目を開けている。


こちらを見て「ああ、この前来てくれた…」と
小さく発する。


美恵子さんが「きょうは声がはっきりしてる。
元気やわ」と笑う。


おなかの上にのせた勝也さんの手の甲が
所々、紫色に変色している。皮膚や血管が
弱くなっているそうだ。


美恵子さんは朝夕の2回、病院に足を
運んでいるという。


夫婦の時間をいとおしむように、勝也さん
の手をさすり、目の周りや口を拭く。
手からぽろぽろと、あかが落ちる。


7月半ば、私たちは病院に勝也さんを訪ねた。
もう会話はできなかった。そして8月14日夜、
勝也さんは息を引き取った。


「納得したんでしょうね。素直な顔でした」。
後日、仏壇の前で美恵子さんが教えてくれた。
。…


※ 死に向き合いきれずに。



愛媛県の松山空港からタクシーで10分ほど
の住宅街に、医療法人「ゆうの森」が運営
する「たんぽぽクリニック」はあった。


2000年に開業した四国初の在宅医療
専門クリニックだ。


冊子「家(うち)で看取(みと)ると云(い)
うこと」は理事長の永井康徳医師(53)
らが作った。全国の医療機関の研修など
で利用されている。


「若い頃、へき地医療に携わってましてね…」。
部屋に通された私たちは永井医師の話
に耳を傾ける。


永井医師は20年ほど前、愛媛県明浜町
(現・西予市)で診療所長を務めていた。
半農半漁のまちだ。


当時の患者に、肝臓がんの男性がいた。
病院で「1カ月しかもたない」と言われ、
自宅に戻ってきた。


家に帰ると体調が良くなり、1年近く
過ごした。


いよいよ死期が迫ったとき、妻にこう打ち
明けられた。「最期は病院がいい。病院
にしようと思う」と。


「当時はね、田舎では携帯電話の電波も
不安定だし、奥さんは不安だったんです。


だから『僕はしばらく、どこにも行かないよう
にします。すぐ連絡がつくようにするから、
安心して』と伝えたんです」。


そして妻は、夫を自宅でみとった。


この体験をきっかけに、永井医師は在宅
医療について考えるようになる。


キーワードの一つは「不安」。先の肝臓がん
の男性のケースのように、家でみとるのは
不安、だから家族は病院を選ぶ。


「昔はね、『ごはんが食べられなくなった』
と言えば、『それでいいのよ』と応えて
くれる人が周囲にいました。


今はそうはいかない。人間はどうやって
亡くなっていくのか、死期が近づくとどう
変わっていくのか。分からないと不安に
なりますよ」


永井医師らが作った冊子には、患者や
家族の不安を和らげるように、自宅での
みとりの流れと心構えが書かれている。


家族をみとった体験談も紹介する。


全11章の最終章では、呼んでも反応が
なくなった後、呼吸が止まるまでの過程
を具体的に伝えている。


永井医師は言う。「医療者も患者も、
死に向き合いきれていないんですよ。


人は、いつか死ぬんです。でも、
きちんと『死にますよ』って伝えないと、
死と向き合えない」…


author :(中島摩子、紺野大樹、田中宏樹)











1984年の「ワープロ贈収賄事件」をはじめ、
世間を騒がせた三つの事件の話。


「ワープロ贈収賄事件」は、関西のとある
国立大学で起きた。


業者が大学の事務長に賄賂を渡してワープロ
の大量購入を持ちかけたのだ。


「予算は文部省が握っている」と事務長が
言うと、業者は文部省の担当課長にまで
賄賂を渡して、そのプロジェクトを成功
させた。


しかし、事件は発覚した。


文部省、国立大学を巻き込んだ大がかりな
この贈収賄事件をマスコミは大きく報じた。


逮捕された文部省の課長はあっさりと200万円
の収賄を認めた。


だが、少なく見積もっても1000万円は受け
取っていると確信していた大阪地検は、
連日連夜、追及し続けた。


2週間後、ついに課長は折れた。
「すべてをお話して、私は死にます」と。


課長の口が堅かったのはお金を若い男に
貢いでいたからだった。


彼は同性愛者だった。当時は偏見の強い
時代だった。「このことが裁判で公になると
自分も家族も生きていけない」と泣き崩れた。


担当した田中森一検事は、「女性問題なら
世間でよくある話だ」と、彼と彼の家族を救う
ために「男」を「女」にすり替えた嘘の供述書
を作成し、裁判所に提出した。


文部省官僚のカネと女のスキャンダルは
マスコミの恰好の標的になった。



二つ目は、1968年に東京・府中市で起きた
「3億円事件」。


犯人は土地勘のある若い男と断定。
警察は多摩地区在住の20代男性、
約20万人を1人ひとり調べた。


1年後、「26歳の運転手Aが重要参考人と
して警察に拘束」と報道された。


その翌日、Aの逮捕を受けて、マスコミは
「A」を「草野信弘」と敬称なしの実名で
報道した。


顔写真も掲載され、中学・高校時代、
勤め先、近隣住民の声など、彼の過去
と現在が白日の下にさらされた。


翌日、彼の事件当日のアリバイを証言
する人が現れた。誤認逮捕だった。


本来ならここで「よかったね」となるところだが、
3日間の報道で草野さんの人生は狂って
しまった。


会社は解雇、兄弟の縁談は破談、
本人はうつ病になった。


「このままだと共倒れになる」と、妻と離婚
した。その後、元妻はくも膜下出血で死亡。


行方不明になっていた草野さんは2008年
に遺体で見つかった。自殺だった。



三つ目は、2005年の「姉歯事件」。


耐震強度を偽装したとして一級建築士の
姉歯氏は連日マスコミに叩かれていた。


「国の基準自体が厳しいんです。計算上、
震度7や8にも十分耐えられるはずです」
と姉歯氏は主張した


が、それが「開き直っている。反省していない」
とマスコミをさらに刺激しバッシング報道は
過熱した。


また、「姉歯はカツラだ」「愛人にマンション
を買い与えた」「妻は高級ブランドを買い
漁り、ホストクラブで豪遊している」と言い
出すマスコミも出てきた。


結局、姉歯氏は逮捕。
妻は自ら命を絶った。


実は、事件前から妻は精神科に通って
いた。そして、「カツラ」以外はすべて
虚偽報道だったことも分かった。


6年後、東日本大震災が関東圏を襲った。
そのとき、姉歯氏が設計したビルはすべて
ヒビ一つ入らず、ビクともしなかった。


そのことをマスコミは黙止した。


※ここからが本題。


あの文部省の課長にも、誤認逮捕された
草野さんにも、そして姉歯氏にも、当時小、
中学生の子どもがいた。


だが、親は子どもを守れるような状況
ではなかった。 


想像だが、あのとき、親に代わって事件の
渦中にいた子どもを必死に守った先生が
いたのではないか。


休みの日も子どもの心に寄り添った担任
の先生や、学校をあげて子どもを守ろう
と指揮を取った校長が絶対いたと思う。


家庭が、その機能を果たせなくなったとき、
犠牲になるのはいつの時代も子どもだ。


そういう子どもたちにこそ、本来の力を
発揮する先生がこの国にはいる。


そう信じたい。…








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