貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・歴史への訪問





















むかしむかし、武田家の家臣に、桜井重久
(さくらいしげひさ)という武将がいました。


重久はとても強い武将でしたが、武田家が
ほろびると富県村(とみがたむら)の貝沼
(かいぬま)に住みつき、名前も貝沼重久
(かいぬましげひさ)と改めて暮らして
いました。


ある日の事、重久は犬を連れてまこもが池に
狩りに行くと、池の中ほどにオシドリが二羽、
仲良く浮かんでいたのです。


「これは、良いえものだ」


重久はさっそく弓矢を放ち、一羽のオシドリ
の首を射ぬきました。


「それっ、えものを取ってこい」
重久が犬に言うと間もなく犬がオシドリを
くわえてきましたが、どうしたわけかその
オシドリには首がなかったのです。


さて、それから数日後の夕方、重久が家で
くつろいでいると、どこからか女の人の悲しい
歌声が聞こえてきました。


♪桜井の、名もうらめしき、貝沼の
♪まこもが池に、のこるおもかげ


それは、『桜井も貝沼という名前もうらめしい、
まこもが池には、今は亡きあの方の面影が
いつまでも残っております』と、こんな意味
の歌です


重久は急いで表に出てみましたが、そこ
には誰もいませんでした。


それから一年後、重久は狩りの途中で、
またまこもが池を通りかかりました。


すると今度はメスのオシドリが、一羽で
池を泳いでいたのです。


「よし、あれをしとめよう」


重久はさっそく、弓矢を放ちました。
「それっ、えものを取ってこい」


犬はすぐさま池に飛び込むと、オシドリを
くわえてもどってきました。


そして犬がくわえてきたオシドリを手にして、
重久はびっくりです。


なんとメスのオシドリの羽の下には、ミイラ
になったオスのオシドリの首がしっかりと
はさまっていたのです。


そのとたん重久の耳に、いつかの悲しげな
女の人の歌がよみがえってきました。


「そうか、そう言う事か」


重久は自分の犯した罪を深く反省して、
その日から弓矢を捨てました。


そして頭を丸めて、まこもが池の近くに
寺を建てると、自分が殺した二羽の
オシドリの供養をしたそうです。


鴛鴦山東光寺(えんおうざんとうこうじ)と
言うお寺が、そのお寺だといわれています。













枡野俊明氏の心に響く言葉


無功徳(むくどく)という禅語は、達磨(だるま)
大師の言葉とされるものです。


由来は達磨大師と梁(りょう)の武帝との問答。


武帝は仏教に対する造詣も深く、その隆盛
にも尽力した人で、みずから仏典も著(あらわ)
すほどでした。


達磨大師がインドから中国にわたった折、
そのことを聞きつけた武帝が宮殿に大師を
招きます。


そして、問答におよんだのです。


「自分は仏教寺院も建ててきたし、写経も
熱心にしている。僧への貢献も惜しむもの
ではない。


この自分にはどんな功徳があるのか?」


そのときの達磨大師の答えが、「無功徳」、
すなわち、功徳などありはしない、という
ものだったのです。


武帝のおこないを大師が認めなかった
わけではありません。


しかし、これだけのことをしたのだから、
功徳があってしかるべきだろう、とする
心がそのおこないの価値を無にしてしまう。


達磨大師は武帝をそう諭したのです。


功徳を現代風にいえば、「見返り」という
ことになるでしょうか。


人は自分がしたことに対する見返りを求め
てしまったり、どこかで期待してしまったり
するところがあります。


残業も厭わず、数日間必死に取り組んで、
ようやく仕事を仕上げた。


それを上司に提出したとき、「ご苦労さん」。
そんなひと言だけだったら、舌打ちの
ひとつもしたくなりませんか。


「がんばってくれたな。残業続きで
大変だったろう。すこし、ゆっくりしてくれよ」
そんな言葉の見返りを期待していたからです。


プライベートでもこんなこともありそうです。


恋人や友人の誕生日に洒落たレストラン
でディナーをご馳走し、プレゼントも用意した。


やがてやってくる自分の誕生日。その日
が近づくにつれて、しだいに思いが
ふくらんできます。


「あれだけのことをしてあげたのだから、
どんなふうに誕生日を演出してくれるかな。
プレゼントは何だろう?」


ところが、期待に反して、LINEで「おめでとう」
しかなかったら、なんだか裏切られたような
気持ちになるのではないでしょうか。


見返りを求めていたからでしょう。


その結果、上司に反感をもつようになったり、
恋人や友人を怨むようになったりする。
寂しい感じがしませんか。


「労いの言葉がなくたっていいじゃないか」
「誕生日にお返しがなくてもいいじゃないか」
そんなふうに受けとめたら、よほどすっきりした
気分でいられます。


必死に仕事を仕上げたという、自分の
充実感だけでいい。


大好きな恋人や親しい友人の誕生日を
祝ってあげられたことがうれしい。


それがすべてなのです。そのあとのこと
は放っておけばいいのです。


無功徳:
どんなおこないも、することがすべてであり、
果報や見返りを求めるものではない。


「ギブ・アンド・テイク」は何かをしたとき、
何かの見返りを求める、という考え方です。
持ちつ持たれつという関係です。


また、「ギブ・アンド・ギブ」という言葉も
あります。


相手に見返りを求めず、ただ与え続け
ることです。


自分の「我」を捨てて、ただただ、人に
喜んでもらうことをすることです。


「おかげさま」の気持ちでする行為です。
それが良寛さんのいう、次の言葉です。


「俺が、俺がの、我(が)を捨てて
おかげ、おかげの、下(げ)で生きる」


また、「忘己利他(もうこりた)」という
伝教大師最澄(さいちょう)の言葉と
同じです。


自分のことは忘れて、他人のために
尽くすこと。


見返りを求めず…ただただ、
ギブ・アンド・ギブの気持ちで、
日々を送る…








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