貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・漢の韓信















この噂を聞いた韓信の父は、役所へ出かけ、楊の弁護を
しようとした。  


しかし弁護といっても現代のように裁判の場があるわけ
ではない。彼のしたことと言えば、役所の建物にむかい、
大声で「楊を助けてやってください」と喚くことだけであった。


最初のうち、役人たちは聞こえない振りをしていたが、
四日も五日もそれが続いて、さすがにうるさく感じた
のだろう、喚く韓信の父のことを建物の中に引き入れた。


韓信の父はようやく話を聞いてもらえると思い、喜々として
役所の中に入ったが、二度と戻ることはできなかった。  


牢獄で再会した彼と楊は、囚人として咸陽に連行され、
そこからさらに北方の名も知れぬ土地で匈奴の侵入を
防ぐための長城を建設する作業に徴発された。


信の父は、隣人の楊とともに、おそらくそこで死んだ。


それだけ宰相の言葉には重みがあるということであろう。
彼は、実際のところ政治に関しては宰相に任せきりであった。


このときの鄭の宰相(正卿)は、名を子産しさんという。
世界最初の成文法を世に残した人物であった。  


子産は続けて言う。 「太子建を匿うことで、いっときは
楚から詰問されることになるでしょう。しかし、私の見積もり
では、彼らは必ず晋に赴くことになります。


もし万が一、彼らがその気を示さなければ、我々がそう
させねばなりません」  


定公はこれに対して疑問を呈した。


「彼らが晋に赴いたところで、我らの弁明の理由には
なるまい。果たして取り逃がした、というだけの理由
付けをしたところで楚が納得するだろうか」


晋が単に彼らに安住の地を授けるために受け入れるはず
がありません。必ず晋は彼らを政略の道具にしようとする
はずです。我々としては、それを阻止すれば良いのです」


子産はまるで未来が読み通せるかのような、確信に満ちた
表情で答えた。 「任せるぞ」  定公は子産を信用し、
それ以上口を挟まないことに決めた。


子仲は、このとき初めて伍子胥とまともな会話を交わした。


混乱を極める宋を脱出し、危機を回避したのちの伍子胥は、
落ち着いていた。


「鄭の国力では、楚に対抗できないな。長居は無用だ」
宮殿の中では、太子を歓待する催しが行われている。


子仲と伍子胥は末席で祝賀の雰囲気を味わいながら、
図々しくもそれを批評しているのだった。 「


ですが、鄭では我らを歓迎してくれているようです。
正直な話をすれば、居心地がいい。


自分のために女たちが舞ったり、楽器を演奏したりする……
このような経験はしたことがありません」


子仲は正直な感想を述べたが、伍子胥はそれを否定した。


「お前のためではなく、もちろん俺のためでもない。
鄭は太子を歓待しているのだ。それがどういうことか
わかるか?」


「いや、わかりません」  


子仲は、実を言うと自分なりに感じるものはあったのだが、
ここは伍子胥に説明させたいと思い、あえて愚者を演じた。


「鄭は、楚国内の政争に敗れた形の太子をとりこみ、
晋の歓心を買おうとしているのだ。


この国は、晋と楚という二つの強国に挟まれ、 その微妙な
政治的均衡の上に存続している。ところがいまは、この二国
の間に休戦が結ばれ、形の上での戦いはない。


そうすると、どうなるか」


「どうなるのです?」 「両者が仲良く鄭国を分割支配しよう
ということになるかもしれない。鄭としては、当然それは
避けたいだろう。


鄭は自分たちの制御できる範囲で、二国を争わせ
たいのだ。私はそう思う」


「では、このまま我々が鄭に留まっていれば、彼らの政治的
道具にされる、と?」


「鄭の正卿の子産は、頭の切れる男だという。いまは歓待
の態度をとっているが、楚の目を気にして我々を殺すかも
しれない」


「そうでしょうか」
「そうに違いないさ」  


伍子胥はそう断言したが、子仲には疑問が残る。


もし彼らが我々を殺すつもりであれば、最初から入国させ
ねばよかっただけの話ではないか。


世の中がそれほど悪意に満ちているとは信じたくない
自分の甘い考えかもしれない。


しかし伍子胥は自分と反対に、世の中のすべてが
敵と考え過ぎているのだ。  


ひとしきりそう考えると後の語が継げなくなった。


卓上の料理に箸を延ばしたが、伍子胥の言葉を頭の中で
反芻すると、 それに毒が盛られているのではないかと、
要らぬ心配をしてしまう。


結局、子仲は食事を口にすることをできずにいた。


「失礼。楽しんでおられますか」 そのとき声をかけてきたのが、
紛れもない正卿子産であった。  


小男である。しかし髪をしっかりと纏め、そのうえにちょこん
と冠を乗せた姿は、非常に清潔感があった。


感じの良い、清廉な男のように子仲の目には映った。


「あまり食が進んでいないようですね」  
子産は子仲の前にある皿を覗き込みながら、心配そうな
表情で言った。


傍らの伍子胥は、そんな子産の様子を注意深く
観察しているようである。


「どうにも自分たちの置かれた状況を考えると、
遠慮なしに箸を付けようという気になれません。
失礼であったら、お許しください」


子仲は、気の荒い伍子胥が要らぬ口を挟む前に、当たり障り
のない口調で子産に答えた。


「ご安心ください。毒は入っていませんよ。誓います」  
柔らかい表情で子産は応じた。


子仲と伍子胥の緊張を解こうとする意思が、そこに
見え隠れしていた。


子仲はそれを好意的に受け取ったが、伍子胥は
油断せずになおも食事に手を付けようとしない。


彼はそのかわりに、口を開いた。


「国を追われた逃亡者に過ぎぬ我々を、こうももてなす
のはなぜだ。あなた方の意図が知りたい」


しかも伍子胥は直情的に子産に詰問した。
だが、子産は動じない。彼は、緩やかな表情を変化
させずに応じた。


「平和ですよ。我々の目的は、それに尽きます」


「しかし客観的にみて、我々の存在は鄭国の安全を
脅かすものだ。あなた方には非常に迷惑だろう」  


伍子胥の口調は穏やかではあったが、子産に本音
を迫っていた。


だが子産には相変わらず、たじろぐ様子はなかった。


「迷惑という言葉は適当ではないが、困惑していること
は確かです。それは認めましょう。


しかし、あなた方は困窮してこの鄭国を頼ってこられた。
我々としては、それに応えたいという思いがあるのです。


たしかに鄭は弱国ではありますが、それゆえに諸国間
の問題を穏便に解決する技術に長けています。


今後のことは、我々にお任せください」
子産は快活にそう答えた。


子仲の目には、彼が嘘をついているようには映らなかった。  












心根の優しい雌猫で、洋子さんがつらいときにはそっと寄り
添ってくれました。


しかし、これから落ち着いて生活をというときに、
難病が見つかります。


それでも「私の元に来たのには意味があった」と洋子さん。
出会いと別れの約1年間の物語です。


猫の名前は「ふわちゃん」といいます。
昨年の12月22日にお空に上りました。
一緒に過ごした時間はわずか1年と13日。


でも、なぜか最初から心が通じていて、振り返ると猫の
お世話をすることで私のほうが救われたのだと
感じています。


ふわちゃんの元の飼い主さんは、都内で独り暮らしをする
おじいさんです。


ふわちゃんと数匹の兄妹猫を飼っていたのですが、
病気で入院することになり、家に取り残されていたところを、
ボランティアさんが救出したのです。


どうして私の家に来たかといえば、猫のお世話をする
ボランティア活動をテレビで知り、「私も猫ちゃんの助けに
なりたいな」と思ったことがきっかけ。


私は10年ほど前から自宅の一室でカウンセリングをしており、
相談の合間に少し時間があるので、動物の様子をみる
ことができたのです。


試しに保護サイトを見てみたら、たくさんの“行き場を失った
”猫たちがいて衝撃を受けました。


そこで一目惚れしたのが、ふわちゃんです。
お鼻がハートマークで、目の縁のアイラインもくっきりした
美猫さん。


サイトにはすでに保護の申し出がある猫もいましが、
ふわちゃんは年齢のせいか、誰からもお声がかかって
いなかったのです。


12歳といえばもうシニア。私も年齢が気にならなかった
といえばうそになりますが、それ以上に引き寄せられる
ものがありました。


ふわちゃんは、一昨年の12月9日、私が1人で住む3DK
のマンションにやってきました。


ふわちゃんは本当にかわいく、お利口で、シャーもいわ
ないし大声で鳴くこともしませんでした。


夜になって「ここどこ?」という感じで窓辺からお月様を
見上げているのを見ると、ちょっと切なくなりましたが、
最初の晩からベッドで一緒に寝て、腕枕に体を預けて
くれたんですよ。


会ったときから私を信頼してくれていました。


◆ 父親の突然の死…ふわちゃんと実家へ


ふわちゃんがやってきて12日目のことです。
私にとって晴天の霹靂とも言うべきことが起こりました。


近くに住む70代の父が突然、亡くなったのです。
ぴんぴんしていて、前日私も話をし、その日の寝る
前まで母とテレビを観ながら笑っていたのに、


夜中に背中が痛いと訴えて救急車搬送され、そのまま
病院で亡くなりました。腹部大動脈瘤破裂でした。


そこから葬儀が終わるまでの1週間、私は自分のマンション
と実家を行ったり来たりしながら、できる範囲で仕事もして、
ふわちゃんの面倒をみていました。


私は一人娘なので、急に独りになった母のことが
心配でした。搬送途中で父に「(自分は)このまま逝く。
お母さんのこと頼む」と言われたので、なおさらしっかり
支えないと、と思ったのです。 


そこで思い切って、49日が終わるまではふわちゃん
を連れて実家に帰ることにしました。


ふわちゃんは順応能力が高く、実家にもすぐ馴染みました。
仏壇の前の座布団にちょこんと座りながら、日中は
過ごしていました。


ときどき、宙をふーっと目で追ったりするものですから、
私も「ふわちゃん、おとうさんまだいるのね?」
なんて声をかけたりして。


私たちに笑顔を運んでくれさえしました。
母も後で、「来てくれて心がなごんだ」と言ってくれました。


そうして、49日の法要を終えるまで、ふわちゃんは
私と母を静かに見守ってくれました。


◆現実を受け入れることができなかった私の葛藤


マンションに帰ってからも、私はやることがたくさんありました。
相続の手続きが残っていたからです。


父に相続のことも託されたと感じ、自分ですることに
したのです。カウンセリングの仕事をしながら、慣れない
作業を続けました。


一連の手続きが完了したのが6月末。
ようやくほっとできたのですが、今度はふわちゃんの
様子がだんだんおかしくなってきたのです。


食事はしているけど、便があまり出ないのです。


病院を回り、詳しく検査をしてみたところ……
「直腸腺がんだろう」と言われました。
9月初めのことです。


直腸に腫瘍ができて狭窄し、肛門の前を塞いでいたため、
便がでなかったのです。


猫の腺がんは予後はよくないということでした。
「年末まで持つかわからない」と言われ、私は
言葉をなくしました。


その病気は猫では珍しく、治療は手術になります。


直腸を反転させて肛門から出し、がんの部分を取って
またお腹に戻すプルスルー術という方法です。


手術をすると(肛門を閉じる筋肉がなくなることもあり)
便が出っぱなしになるので部屋が汚れます。


しばらくはお腹も緩い状態になるし、さらに転移のリスク
もある。腫瘍を取ったからハッピーになるということで
はないようでした。


自分で獣医療の文献を探して読んでも、予後は
悪いと書いてありました。


ふわちゃんが12歳で手術を受けることは生き地獄に
なるのかもしれない…。


眠れないなか、わたしはふわちゃんを安楽死させようか
とも考えてしまいました。


でも行動に移せなかった。


目の前のふわちゃんは、ガリガリではないし、
不健康には見えないのです。


一方、手術にも踏ん切りがつかずにいました。


手術をしてくれる病院はすでに見つかっているのに、
ボランティアさんなどに連絡して、「いい先生いませんか」と、
また2軒くらい、ふわちゃんを連れて病院に行きました。


でも、どの先生にも「予後はよくない」と言われました。  


結局、私はふわちゃんががんだとは認めたくなかった
んですね。現実を受け入れたくなかったのです。  


でもそこから私の中に変化が少し起きたんです。
八方ふさがりともいえる状況で、「私のところにこの子が
来たのは、なにか意味があるのではないか」と思い
始めたんです。  


私は家で仕事をしています。だから、(仕事の合間を
縫って)様子を見ることができる。そこに来たということは、
“体のことを見てくれる人”を猫のほうが選んだのだろう。


だったらちゃんと向き合ってみよう、と思いました。


ようやく手術の決心をして9月25日、手術を受けました。
退院は3日後でした。  


退院してからは下痢と便秘を繰り返しました。
お尻が汚れるとそこをふわちゃんが舐めるのですが、
そうすると肛門がただれてきてしまって、


エリザベスカラーとおむつをしてという状態が続きました。


ふわちゃん本人は、便意をもよおすと、おむつをしたまま
トイレにいくので、そのタイミングで私がおむつを外し、
お尻を洗ったのですが、


このケアは家で仕事をしてなければ無理だなと、
あらためて感じたものです。  


下痢が落ちついてからは、「かりんとう」のような便が、
ぽろっと床やベッドに落ちることがありました。
でもそれすら愛おしく思えました。


手術前に4キロあった体重は術後に3・5キロに。


食欲増進剤を飲ませ、食べられそうな食事を探しました。
でも好きなフードで3・8キロまで戻ったんです。


◆一緒にいられる時間はあと少し  


手術以降はふわちゃんに負担がかかる医療ではなく、
症状の緩和のための処方を受ける範囲で通院をしました。  


お昼寝して、キャットタワーでニャルソックして、
私とおしゃべりして、ゆっくり家で過ごしてもらえれば……
と思って。  


そうして、12月9日、家に来て一周年を迎えました。  
その日を誕生日にして、13歳のお祝いをしました。


お手製の赤い首輪を作り、朝から何度もおめでとうと
言ってしまいました。  


でも、一緒にいられる時間は、あと少しでした。  


誕生日の数日後、お腹が膨れているのがわかったんです。
ついに来たか、と。


直腸がんの症例を自分で調べたとき、最期は腹膜播種
を起こして腹水がたまって亡くなる例が書かれていたの
を私は覚えていました。  


12月17日に、病院にいったときには、先生に「なんとか
元気に年越しができそうだね」と言われたのですが、
私は正直長くないと覚悟をしました。





最期のとき。


とっても可愛い声でナァーンと鳴いたので眉間を撫でると、
愛らしい甘えた目で私を見てゆっくり瞬きをしてそして、


深い眠りにつきました。  


最期まで本当に美猫さんでした。そのままずっと胸に
抱いていたので、抱いた形のままになりました。  


ふわちゃんは、甘えるのが好きで、撫でるとすぐにグルグル
喉を鳴らすけれど、抱っこされることが苦手でした。


きっと前のおうちで、抱っこの習慣がなかったのでしょうね。


でもふわちゃんは人をこわがらず、すごく落ちついているので、
飼い主さんに愛されていたということだけは、よくわかりました。  


抱っこ嫌いだったので、旅立って初めて抱けたわけですが、
それも幸せな時間でした。


亡くなって2晩ほど、クリスマスソングを一緒に聴いて、
早めのクリスマスを過ごしました。


◆うちに来てくれてありがとう  


今は、闘病の苦痛からふわちゃんが解放されたんだから
良かったな、と安堵の気持ちです。


ふわちゃんのいない家に慣れるのには、もう少し時間が
必要かな。


生前、あなたは誰なのとふわちゃんに聞く事が何度か
ありました。  実は、ふわちゃんの命日は、父の命日
の翌日でした。  


父の一周忌。無事一周忌法要を終え、先日、命日を迎え
……その翌日です。


まるで「お役目」を果たしたかのように、ふわちゃんは、
私のもとから旅立ちました。  


父の他界後の1年、悲しみの底にいる私達のそばで
見守ってくれて、落ち着いたころ、自らの介護に奮闘
させる事で悲しみの沼に落ちない様に、私を救いに
来てくれたのではないかと思うんです。  


ラストの3カ月は介護だったけど、一喜一憂する私に
「まぁ落ちついたら」と諭すような視線を送ってきて、
いつでもおおらかにのんびりしていて、お世話の
時も悲壮感がありませんでした。  


ふわちゃんとの間には、いつでも不思議と「わかり合えていた」
感覚があり、その感覚に今もふとしたときに救われます。 


ふわちゃん、私のうちに来てくれてありがとう。


ふわちゃんのお世話ができて楽しい日々でした。 …






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