貧者の一灯 ブログ

信じれば真実・疑えば妄想

貧者の一灯・歌物語











第二次大戦が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に
対する軍事裁判が行われました。


戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて
裁かれました。  


A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の
計画、開始、遂行等、


B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、


C級は「人道に対する罪」で、戦前・戦時中になされた
殺害・虐待などの非人道的行為です。


B級は従来の戦争法規に規定されていましたが、
A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月の
ロンドン協定で新たに設けられた罪科です。  


日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された
国際軍事法廷で行われましたが、


B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、
イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに
行われました。


おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、
B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告されました。  


しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんな
ものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なく
ありませんでしたが、


軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺
した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども
含まれていました。


文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係の
ない者が刑を受けた例もかなりありました。  


勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしが
ありません。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の
色彩を帯びるのが普通です。


もし、日本やドイツが勝っていたら、同じような裁判をしただろうし、
日独の全体主義体制下では、もっとひどい裁判をした
かもしれません。


戦争は、戦犯の裁判まで含めて戦争と考えたほうがいいのでしょう。  


さて、昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日した
フィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパの
ニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、
すでに14人が処刑されたと聞きました。


戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つ
だけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の
鳩居堂からお香を同刑務所宛に送りました。  


同年の6月のある日、ニュービリビット刑務所の戦犯から、
「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、
歌詞と楽譜が渡辺はま子のもとに送られてきました。


それが『あゝモンテンルパの夜は更けて』です。


作詞の代田銀太郎は長野県出身の元少尉、作曲の伊藤正康は
愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていました。  


渡辺はま子がただちにビクターに持ち込んだところ、
そのいきさつに感動した幹部がレコード化を決断、
渡辺はま子と宇都美清の歌で発売されました。


レコードは瞬く間にベストセラーとなり、現地にも送られました。  


しかし、彼女は、それだけでは満足しませんでした。
なんとか現地の戦犯たちの前で歌いたいと思ったのです。


一般国民の海外渡航が禁止された状況で、フィリピン行きの
許可を取るのは困難を極めましたが、あらゆる伝手をたどって
奔走した結果、


同年12月下旬、彼女はやっと念願を果たしました。


ニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む109人の
戦犯たちを前にして、この歌を歌うことができたのです。  


翌28年、同刑務所に駐在していた教誨師・加賀尾秀忍は、
奔走してフィリピンのキリノ大統領に面会しました。


戦犯たちの釈放や減刑を請願するためでしたが、
彼はまず『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴール
を聞かせました。


「この悲しいメロディはどういう曲か」と尋ねた大統領に、
彼は「モンテンルパの死刑囚が作った歌です」と答え、
歌詞の意味を説明しました。


大統領はしばらく沈思したあと、自分の辛い記憶を物語りました。
それは、マニラでの日米の市街戦に巻き込まれて、自分の
妻と娘が亡くなった話でした。  


モンテンルパの全受刑囚の日本送還と死刑囚の無期への
減刑が同国政府から発表されたのは、この面会から1ヶ月後
のことでした。  













新型コロナウイルス感染症と同様、がんも年齢とともにリスクが
上がります。


男性の場合、55歳までにがんになる可能性は5%程度ですが、
65歳では15%、75歳では3人に1人にまで上昇します。


私たちの体内で発生するがん細胞の数は、遺伝子の
「経年劣化」により、年齢とともに増えていきます。


同時に、がん細胞を監視する免疫の働きも加齢によって
衰えます。この結果、年齢とともに、がんに 罹患りかん
する人の数は増えていきます。


一言で言えば、がんは「老化」と言えます。


新型コロナの感染と死亡が高齢者に多いのも、加齢で免疫力
が低下することが大きな要因と言えるでしょう。


原因の半分以上は生活習慣


がんは高齢者に多い病気であると同時に、男性に多い
病気でもあります。


2017年にがんで死亡した人は37万3334人ですが、
男性22万398例、女性15万2936例で、
男性が女性の1.44倍でした。


がんと診断される人の数も、男性が女性の約1.3倍(2016年)です。
この理由は、がんの原因の半分以上が生活習慣によるもので、
喫煙も飲酒も運動不足も、男性に多いことが主な原因と言えます。


乳がんは40代、子宮頸がんは30代が発症ピーク
実は54歳までは、がん患者の数は男性より女性に多いのです。


55歳で男性が女性を上回り、年齢ともに急激に増えていきますから、
全体では男性が多いのですが、


30代に限れば、女性のがん患者の数は男性の2.5倍
(2016年)にも上ります。


これは、女性の「二大がん」である乳がんと子宮 頸けい がんが
若い世代に多いことが理由です。


乳がんは40代、子宮頸がんは30代が発症のピークなのです。


50歳過ぎて前立腺がんは増え、乳がんは減る 乳がんは前立腺がん
とともに、性ホルモンの刺激で増殖するがんです。


実際、進行した乳がんや前立腺がんでは、女性ホルモン、
男性ホルモンの分泌を抑える「ホルモン療法」が行われます。


男性の場合、高齢になっても男性ホルモンが出続けますから、
前立腺がんは年齢とともに増加します。


一方、女性では50歳過ぎで閉経を迎え、女性ホルモンの
分泌が止まって増殖刺激がなくなりますから、40代の後半に
ピークがきます。


子宮頸がんは、性交渉による「ヒトパピローマウイルス」の感染が
原因になります。


これは、女性の7割以上が一度は感染経験を持つ、
ごくありふれたウイルスです。


感染経験がなければ子宮頸がんは発症しません
(処女の女性にはまず発生しません)。


「性の解放」とともに、好発年齢が若くなっており、今や30代が
ピークで、20代にも急増しています。


女性は、若い頃からがんに備えておく必要があるのです。
一方、男性は50代から急激にがんが増えていきます。


65歳までに6~7人に1人が、がんになりますが、75歳まででは、
3人に1人、そして、生涯では3人に2人近くが罹患します。


もはや、がんになることを想定した人生設計が必要と
言えるでしょう。…






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